婚約破棄は構いませんが、私の先生を傷つけるのであれば許しません
短編を投稿します。よろしくお願いします!!
「そんなに話しかけられても困るよ」
王国第一王子、エドワード・フォン・ブランディール王太子の周りには、いつも人が集まっていた。
彼は朝日を思わせるような淡い金色の髪を揺らしながら、整った顔に少し苦笑を浮かべて、お茶会の誘いや、次の授業の相席依頼。向けられたお願いを一人一人丁寧に聞いている。
勉学にも剣術にも秀でていて身分の低い生徒から頼み事をされても、嫌な顔一つしない。
明るく自然と人を引きつける、太陽のような王子。
「おはようございます。エドワード様」
アリシア・ヴェルノワール公爵令嬢が、廊下の端から歩いてきた。
腰まで流れるほどの漆黒の髪に、夜空を思わせる深い紫の瞳。黒を基調とした上質なドレスを纏ったその姿には、触れることさえためらわせるような鋭さがある。
アリシア・ヴェルノワール公爵令嬢が歩いてくると、先ほどまで楽しそうに話していた生徒たちが自然に道を空けた。
「今日も一人なんだね。アリシア」
誰も私には近づかない。それはいつものことだった。
休み時間になっても、誰かが私の所へ来ることはない。エドワード様の周りにはいつもたくさんの人がいるのに。
「まったく、そんな顔をするな。アリシアには僕がいるじゃないか」
「殿下……」
その言葉を聞くと、不思議と安心した。
やっぱり、エドワード様はいつも優しい。こんな無口な私に対して、気兼ねなく接してくださる。それは、婚約者だからというのもあるのだろう。
でもそれだけではない。幼い頃からずっとエドワード様だけは私のそばにいてくれた。
「アリシア。君が一人でいるということは決して悪いことではないと思うよ。貴族社会では誰と仲良くするかというのは大切なんだ」
「……そう、ですよね」
「無理に誰かと仲良くする必要なんてない。君には僕がいるじゃないか」
そうだ。私は王太子であるエドワード様とだけ仲良くしていればいい。幼い頃から一緒だったんだ。エドワード様は私を見捨てたことなんて一度も無い。
エドワード様がいてくださる。そう思うとアリシアは安心できた。
◇
「ア、アリシア様。おはようございますっ!!」
教室へ向かう途中、前から数人の令嬢が挨拶をした途端、足早に通り過ぎていった。
「私ってそんなに怖いでしょうか」
エドワード様は少し考えるようにしてから、笑った。
「ああ、そうかもしれないな。君が公爵令嬢だから皆は気を遣っているんだよ」
「……そう、ですよね」
公爵令嬢だから。ヴェルノワール家はこの国でも最も大きな家。王国と権力を二分する公爵家だった。私に少しでも嫌われれば、命はない。そう考えるのも当然と言えば当然である。
エドワードはいつもの笑顔を浮かべた。
そう。自分が悪いわけではない。少し特殊な家柄だから。そう思えば少しだけ楽になった。
だが、この言葉には何か違和感がある。私はそれを昔から考えていたが、答えは今まで一度も見つかったことはない。
アリシアはいつもの後ろの方の席に座った。私が座ると、いつも周りがあいている。
前の方では、エドワードは自分の席で何人かの生徒たちと話している。
エドワード様はすごい。王太子という身分でありながら、教室の輪の中心にいつもいる。
まあいいか。友達なんていらない。
エドワード様が居てくださればそれでいい。
そう思って、私はもう一度窓の外を見た。
考えるのは、もうやめよう。
◇
「今日から歴史学を担当することになった、マリア・ウッドフォードです」
教壇に立った女性はにっこりと笑った。
少し癖のある栗色の髪と丸顔。丸みを帯びた顔立ち。
特別に美しいというわけではないが、不思議と親しみを感じる人。それがマリア先生を見たときの私の第一印象だった。
新しい教師が来ること自体は、学園では珍しくない。
だから、そのときまでは特に気に留めていなかった。
「では、アリシア様」
「は、はい……?」
突然名前を呼ばれて、私は顔を上げた。教壇のマリアがこちらを見ている。
教室中の視線が一斉に集まった。どうして私に?
いつもなら、誰も私に話しかけない。公爵令嬢で王太子の婚約者、そう思われているせいで、みんな私から距離をとる。
「では、この問題を答えていただけますか?」
それがこの学園では当たり前なのだが、この人だけは違った。
「正解です。さすがアリシア様、優秀ですね」
たったそれだけのことなのに、少し戸惑った。
難しい問題ではなかったが、それでも誰かにこんな風に笑いかけられたのは久しぶりだった。
それからも、マリアは私がいるところを見かけると積極的に声をかけてくるようになった。
休み時間に廊下ですれ違えば、軽い挨拶と世間話。授業が終わった後一人でいれば、今日の内容についての話をしてくれる。
マリア先生は教師なのだから、生徒に話しかけるのは当たり前なのだろう。
そう納得しているのに、声をかけられるたび、少しだけ嬉しくなる自分がいた。
不思議な人だった。
私は誰かとこんな風に話すことにいつの間にか慣れていなかったらしい。
そんなことを考えながら、私は食堂に向かった。
私が入った途端に生徒たちは一瞬静かになってから、賑わいを取り戻す。
そして食事を受け取り、誰もいない方の長椅子に座る。
いつものことだった。
「アリシア様」
聞き慣れた声に顔を上げた。そこには、トレイを持ったマリア先生が立っていた。
「ここ、よろしいですか?」
そう言って、私の向かいではなく、隣の席を指差した。
「ええ……」
思わず小さくうなずくと、マリアは嬉しそうに隣へ腰を下ろした。
どうしてだろう。今まで誰かが私の隣の席に座ることなんてほとんどなかった。食堂で一人でいることにももう慣れていたはずなのに。
「一人で食べるより、誰かと食べた方がおいしいでしょう?」
そう言って、マリア先生は何でも無いことのように食事を始めた。まるで私と一緒に食べることが特別なことではないみたいに。
それがなぜ嬉しかった。
私に恐れを感じず自分に笑顔を向ける人なんて、エドワード様くらいだった。
エドワード様なら私より身分が上なのだから、そう接してくるのは分かる。
だが、マリア先生は小貴族の出身だと聞いている。本当は、この食堂の中でも相当に低い身分だったはずだ。どうして、自分に対してこんな風に接することが出来るのだろうか。
「あ、アリシア様、野菜残してるじゃないですか!だめですよ!!しっかり食べないと!!」
思わず箸が止まった。こんな風に言われたのはいつ以来だろう。
……私に対してこんな態度を取れるのはこの学園ではこの人くらいだ。
ふと周囲を見ると何人かの生徒が、こちらを見ていた。驚いているのだろうか。それとも、私の隣に先生が座っていることが気になっているのだろうか。
その目には、わずかな戸惑いと警戒が浮かんでいるように見えた。いつか、私が怒り出すのではないか。そんな恐怖を抱いているのかもしれない。
そして、その一方で、何が起こるのか見てみたい。そんな好奇心まで混じっているように思えた。
本当に馬鹿馬鹿しい。
「ふふ……」
私は怖がられることもなく、腫れ物のように扱われることもなく、身分を理由に気を遣われることもない。ただ、マリアから見れば野菜を残している生徒。
それがなんだかとても嬉しかった。
「どうかしたんですか?」
「い、いえ……」
学園の食堂の隅、誰も寄りつかないそのテーブルでは、私は初めて、一人で食べることを寂しいと思わずに済んでいた。なんだか久しぶりに暖かい雰囲気に包まれた気がする。
ふと誰かの視線を感じた。
その人影は、しばらくこちらを見つめた後、何かをつぶやいた。
「不愉快だな、あの教員……」
◇
その日の帰り道。
「アリシア」
私が学園の廊下を歩いていると、
いつもの笑顔を浮かべて、エドワード様がこちらへ歩いてくる。
「今日はどうだった?」
エドワード様に話したいことでいっぱいだった。
実は今日初めて、友人のような気の置けない関係が出来たこと。エドワード様は僕がいるから気にしなくていい。友達なんていなくていい、と言ってくれたけど、友達って楽しい。自分の新しい宝物が出来た。という自分の新しい発見に気づいたこと。
それを誰かとお話して分かち合いたかった。
「実は最近、マリア先生とよくお話するんです」
「そうか、マリア先生と。確か、歴史学の先生だったよね」
「はい……!とても優しい方です。授業もわかりやすくて、それに私が野菜を残してきたら叱ってくれたんです。それがとても面白くて」
「ははっ。アリシアが先生に叱られるなんて珍しいな」
エドワード様も楽しそうに笑っていた。私は少し嬉しくなって、マリア先生のことを話し続けた。図書館で一緒に本を読んだことや、食事を一緒にしたこと。他愛もない話をして笑ったこと。話しているうちに、自分でも驚くほど言葉が出てくる。
こんなに誰かのことを楽しく話したのは、初めてかもしれない。
「……その人、ウッドフォード先生っていうんだ」
エドワードは少し眉をひそめた。
「アリシア。一つだけ言っておきたいことがある」
「あ……でも、本当にいい人なんですよ?私の権力とかは……」
確かに家柄だけでみれば、公爵家とかではないかもしれない。
だからといって、権力や家柄目的で近づくような女性ではない。
そういう風なことを言おうとした。
しかし、エドワードが口にしたのは、権力目的よりも残酷な真実であった。
「君のヴェルノワール家とマリア先生のウッドフォード家はかつて激しい権力争いをしていた」
「私の家と?」
「ああ。血で血を洗う権力闘争。それは壮絶なものだったらしい。そうして勝ち残ったのがヴェルノワール家。……ここまで言えば、僕の言いたいことはもう分かるよね」
そのことなら私も多少は知っている。ヴェルノワール家は貴族の中でも頂点に君臨する公爵家。その地位を気づくまでに過去、数え切れないほどの争いを勝ち抜いたらしい。
私が学園で恐れられている理由の一つもきっとこれのせいだろう。
でもまさかマリア先生がその因縁に関わる家の人だったなんて。
恐ろしい考えが脳裏をよぎった。
マリア先生の赴任はヴェルノワール家への復讐の始まりなんじゃないか、と。
「アリシア」
そこでエドワード様はにこり、と笑った。
「もう、マリア先生とはあまり関わらない方がいいんじゃないか?」
目の前にはエドワード様の優しい笑顔。
そうだ。なぜ私は余計なことを考えていたんだろう。
エドワード様についていけば、絶対に安心なんだ。エドワード様と友人でさえいればそれでいい。他人と深く関わる必要なんてないじゃないか。
でも……
『あ。アリシア様、野菜残してるじゃないですか!』
不意にあの声がよみがえった。大きくて、遠慮が無くて、計算なんてまるで無いような、馬鹿みたいに無邪気な笑顔。もし私を利用するつもりなら、どうしてあんな風に接するのだろう。
わざわざ私に声をかけて公爵令嬢である私に説教するなんて、そんなことをすれば私に嫌われるかもしれない。ヴェルノワール家の機嫌を損ねない保証だってない。
復讐を企てている人間なら、こんな危ない橋を渡る必要があるだろうか。
そう考えると、胸の奥にあった疑念が不思議とほどけていく。
アリシアの口元にはなぜか少しだけ笑みが浮かんだ。
生徒が好き嫌いをしていたから。だから、きっとあの人はそれだけの理由で叱ってくれたんだ。そんな当たり前の理由で。
「……すみません」
「ん?」
アリシアはうつむいた。
怖い。エドワード様に逆らったことなど一度も無い。
幼い頃からずっと、エドワード様の言うことは正しいと思って生きてきた。
「先生はそんなこと、思ってないと思います」
「アリシア……?」
恐る恐る、顔を上げると、エドワード様は笑っている。それを見て少し安心したけれど、その笑顔はいつもより少しだけ固かった。
「先生は、私を普通の生徒として扱ってくれています」
「アリシア、でもウッドフォード家は……」
「分かっています」
エドワード様の言うことだ。両家の因縁も、きっと本当のことなのだろう。
だが、あの笑顔を見た後では私にはもうちっぽけなものに感じられた。
「でも、先生が私を利用しようとしている証拠も復讐しようとしている様子は私には感じられませんでした」
エドワード様は良心で言ってくれている。
だが、ウッドフォード家だからといって、私に近づいたらいけないのだろうか。
私がここでマリア先生を裏切ったら……。そう思うと、胸が苦しくなる。
「マリア先生に関わらないかどうかはもう少し私に考えさせてください」
言った。言ってしまった。初めて自分の意思をエドワード様に伝えた気がする。
でも不思議と後悔はなかった。
「そうか、まさか君がそこまで言うとはね」
エドワード様はそれ以上は何も言わなかった。
◇
それから一ヶ月後、
学園では、王太子エドワード主催の夜会が開かれていた。
大広間には華やかな音楽が流れ、色とりどりのドレスが行き交っている。
「またあの方と一緒にいらっしゃるのね……」
「良いように扱われているのかしら……」
そんな嫌な声が聞こえたような気がしたが、私は聞こえないふりをしていた。
「やっぱり私は黒板に字を書いている方が性に合っているわ」
「ふふっ」
マリアは少し居心地が悪そうにしている。少し無理を言って来てもらってしまった。私がここへ一緒に来たかったのだ。いつもなら、後ろの席でぼんやりしてるだけだから。
以前の忠告からアリシアはマリアとより一緒に行動するようになっていた。
もちろんエドワードはあまりいい顔をしないが。
マリアと一緒にいるときだけは素の自分でいられた。エドワード様よりも、なぜだかマリアの方が居心地がよかった。
マリアはいつもそばにいてくれる。私が公爵令嬢だからと言って何の見返りを求めることも無い。
「アリシア」
背後から聞き慣れた声が響いた。
「楽しんでいるみたいだね」
振り返ると、いつものように柔らかい笑みを浮かべたエドワード様が立っていた。
「少し僕にも構ってくれないか?」
エドワード様は冗談めかしてそう言った。そういえば、最近はエドワード様と歩くことはめっきり減った気がする。別に断る必要など無かったので、ついて行くことにした。
◇
「最近の君はずいぶんと変わったね」
「そうでしょうか?」
確かに変わったかもしれない。いつもマリアと行動しているし、最近は学園が楽しい。やっぱり私の思った通り、マリアは悪意を持って接する方ではないのだろう。
ただ、昔、私の家と確執があったことはいつか謝らなければいけないと思っている。
「昔は僕といることを楽しそうにしていたのに。今は、僕よりも大切なものが出来たみたいだな」
「そんなこと……」
そんなこと気にする必要ないじゃないですか。
アリシアがそう言おうとしたその時、エドワード様の声が少し低くなった。
「君には失望したよ」
エドワード様に対して私が失望するようなことをしただろうか。
「まさか、立場を利用して、教師を脅迫するなんてね」
「……脅迫?」
エドワード様は懐から封筒を取り出した。
「これは君がマリア先生に渡したものだろう」
え……?全く意味が分からない。書面には確かに自分の名前が記されている。
内容はウッドフォード家を脅して、マリアに対して主導権を握るということが記されている。
「僕は君を信じたかった。だが、こうなった以上、やむを得ない」
そして、エドワードは思いもよらぬ言葉を発した。
「アリシア・ヴェルノワール。僕、エドワード・フォン・ブランディールは、本日をもって君との婚約を破棄する」
大広間が一斉にざわめいた。
「え……」
起きた出来事に全く理解が追いつかない。なぜ?一体、エドワード様は私の何を気に入らなかったというのだろう。
「こんな明らかな証拠まで残しているのだから、もう言い逃れは出来ないぞ、アリシア」
私は、その書類をもう一度見た。
明らかなって、こんなもの……。
ヴェルノワール家の書面など、王国の誰しもが一度は見たことがあるだろう。誰が見たって偽造だって分かる代物だ。
紙はヴェルノワール家のそれとは少し違うし、印も盾の紋章の線が一本足りない。
おそらく、エドワード様はヴェルノワール家の書類を偽造したことで大問題になるのを避けたかったのだ。精巧に作ればそれこそ大騒ぎになる。
これほど似ていない書類であれば、ある程度言い訳がつく。
「あ……」
だが、当然というか誰も声を上げない。エドワード様に逆らったとあれば、貴族としての命はない。マリアが特別なだけで、これが常識なのだ。
それに、アリシアは周囲を見渡す。
周りには子息子女。嘘だと分かっていながら、皆が私を疑いの目で見ている。エドワード様に対する打算だけではない。私に対する恐怖。王太子と結婚する私に対する嫉妬。そしてヴェルノワール家にできるだけ関わりたくないという思い。
アリシアなんていなくなればいいのに。という総意がこの会場には渦巻いていた。
エドワード様に婚約破棄を命じられても、公爵家の格は大して下がらない。
学園を去ったとしてもそれは同じだ。
これ以上他人に迷惑をかけるなら、もういっそのこと……。
「分かりました。認め……」
そう、アリシアが頭を下げかけたその時だった。
「待ってください!」
大広間によく通る声が響いた。
「マリア先生……?」
さっきまで遠くで待たせていたマリアが、いつの間にか近くに来ていた。
「その書類、アリシア様が書いたものではありません!」
「何?」
「私は脅されて一緒にいるわけではありませんし、そんな質の悪い紙、公文書で残すわけが無いです。そして、第一それはヴェルノワール家の印章じゃないでしょう!!」
マリアが指摘したのは、ここにいる全員が知っていること。
「私はこの一ヶ月、アリシア様と一緒にいました。アリシア様は人を脅して言うことを効かせるような方ではありません!」
マリアはそれからも、さらに弁護を続ける。そんなことしたところで自分に得なんて一切無いのに。
「嫌なことがあれば我慢してしまう。誰かに迷惑をかけそうになると、自分が離れればいいと思う。だから今だって婚約破棄を受け入れようとしているんです!こんな嘘っぱちの書類を!……殿下、こんなお方にいわれのない罪を着せるおつもりなのですか!?」
マリアの声が大きく広間に響いた。
「……先生」
自分たちヴェルノワール家とウッドフォード家は、かつて争った仲なのだ。
親の敵のはずなのに。なぜ先生は私の味方をしてくれるのだろう。
「わかったよ。マリア先生」
その言葉にマリアは安堵の顔を浮かべた。終わった、と思ったのだろう。
だが、私にはエドワード様が次何を言うのか、大体予想がつく。
禁を犯したものにはそれなりの罰が下されるのだ。
「じゃあ、マリア先生にはこの学園から去ってもらいましょう」
「……え?」
一瞬、マリアの時が止まったような気がする。それから少しずつ言葉の意味を理解し始めた。
アリシアをかばうために王太子へ逆らったこと、そのものが罪にされたのだと。
「いえ、私はただ……!!」
「もういいです。貴女が言いたいことは分かりましたよ。この場で私に刃向かう。それはこの王太子たる私を侮辱する行為です。なら、去ってもらう。当然の帰結でしょう?ねえ、先生?」
マリアの顔から血の気が引く。
ようやく、自分が何をしてしまったのかを理解したようだった。
マリアはうなだれて、そのまま会場の出口へと向かっていく。
「……先生」
私が呼ぶと、マリア先生が振り返った。
「書類が嘘だなんて、そんなこと誰でも分かることですよ……」
ぽつり、とつぶやいた。
「でも、エドワード様が怖いから皆、黙ってるんです。王太子に逆らったら貴族として命はないから……」
一度こぼれた言葉は、もう止まらなかった。
「なぜ貴女は私を助けようと思ったのですか……!」
言葉と、そして涙がこぼれ落ちていく。なぜだろうか。他人のことなんてどうでもいいはずなのに。なぜか、涙が止まらない。
「ヴェルノワール家は貴女の仇敵のはずでしょう。被った不利益だって笑って見過ごせるようなものではないはず。憎くはないのですか?なぜこんな施しをしたのですか?私には貴女が分かりません……!!」
そこまで言うと、マリア先生は小さく笑った。
「そうね」
その笑顔は、いつものものだった。
「本当なら見過ごすべきだったかもしれないわ。確かに、あなたの家は昔、私の家と対立していた。それは事実よ。そのせいで家はいつも貧乏だったし、私は学校でも浮いていて、いい思い出なんか一つも無かった」
「じゃあ何で助けたりなんか……」
マリアは微笑んだ。
「あなたが一人でいるところが、私の学生時代と一緒だったからかしら……」
そう言い残して、先生は出口へ向かっていった。
私はその背中を見つめた。先生は、私を助けるためにここまでした。自分の家を没落させられて、それのせいで嫌な思いまでして。
最悪な相手のはずなのに、なぜ自分の教師人生まで棒に振るう必要があるのだろうか。
静まりかえった広間に、ぱち、ぱち、と小さな拍手が響いた。
「アリシア。どうやら君の予想が正しかったようだ」
エドワード様の笑顔が、少しだけ違って見えた。
「惜しい人材を失った。君にさえ関わらなければ、彼女はここにいられたのにね」
君にさえ関わらなければ。エドワード様のその言葉だけが、頭の中に残った。
マリア先生が学園を去ることになったのは、私のせい。先生がエドワード様に逆らったのも、私をかばったから。そう言われれば、そうかもしれない。
私はずっと、マリア先生にどうして私と親しくしてくれているのか、と尋ねていた。
ヴェルノワール家とウッドフォード家は争っていた。それなのに、先生は私に手を差し伸べてくれた。
一緒に食事をしてくれた。本を一緒に読んだ。
私が間違えたら叱ってくれて、くだらない話をすれば笑ってくれた。
私のせい……?ヴェルノワール家のせい?本当にそうだろうか。ずっと疑問を感じていた。考えないようにしてきた。胸が締め付けられるような思いがする。なぜだろう。なぜ私はこんなにも……。
怒っているのだろうか。
「……そうですか。ならよかったですね」
自分でも不思議なほどに冷静な声が出た。胸の中で燃え上がった感情が、あまりにも大きすぎて。
「だって、先生はこんな場所にいるべきではありませんもの」
「アリシア……?」
私は遮るように自分の思いをぶつける。
「先生は、私が公爵令嬢だからでも王太子の婚約者だからでもなく、ただの生徒として接してくれました」
アリシアは一ヶ月のことを思い出していた。マリア先生と二人で歩いた日々。短い間だったが、色濃く残った唯一の楽しい学園生活を。
「私が一人でいれば声をかけてくれた。野菜を残せば叱ってくれた。一緒に本を読んでくれて、くだらない話で笑ってくれた」
アリシアの声が、明確な怒気を帯びた。
「……そして今日は私のためにあなたに逆らった」
一国の王子に逆らう。それがどれほど怖いことだったか、先生は分かっていたはず。でも、生徒だから、自分も同じような過去があったから。そんな理由だけで親の敵の私を助けてくれた。
「君に関わらなければ良かったのに。ですって?」
私は怒っているというのが、自分でも分かる。私は今まで生まれてきてから、こんな大きな感情を抱いたがあっただろうか。
「先生が私に声をかけてくれたことも、私を笑わせてくれたことも。今日、私のために立ち上がってくれたことも、私は一度たりとも後悔したことなんてありません」
先生の心は本物だった。あの時、エドワードの言葉に従って、先生から離れようと一瞬でも思った自分の方がよっぽど愚かだった。そうアリシアは思った。
「婚約破棄でも何でも好きにすればいいです。……でも」
そして、アリシアは生まれて初めてエドワードを睨み付けた。
「先生を傷つけるというのであれば、私はあなたを許しません」
言い切った瞬間、エドワードの表情が止まった。
アリシアは、怒ったことがなかったから、何をされるのかが分からない。
怒鳴られるのか、それとも笑って受け流されるのか。
彼はしばらく黙っていた。そしてやがて、口を開いた。
「そうか」
にやりとエドワード様の口元が歪んだ。だが、怒っているわけでもなく、侮っているわけでもない。むしろ、嬉しそうに見えた。
まるで、初めて自分の足で立ち上がったことを喜ぶ親のように。
「マリアが君を変えた、そういうわけか……」
エドワード様は何がそんなに嬉しいのか分からない。
私が黙っていると、エドワード様は昔を懐かしむように目を細めた。
「君は昔から、何も欲しがらなかったよね」
突然、そんなことを言われた。昔……?昔がどうかしたのだろうか。
「新しいドレスが欲しいとも言わない。欲しいおもちゃがあるとも言わない。誰かと遊びたいとも、どこかへ行きたいとも言わなかった」
その言葉に、私は何も言えなかった。そうかもしれないと思ったからだ。
「周りの子供たちが何かを欲しがっている中で、君だけはいつも静かだった。何かを与えれば受け取る。でも、そこに執着することもない。失っても、取り戻そうとはしない」
エドワード様は、まるでその頃の私をよく知っているかのように続ける。
「だから僕は思ったんだ」
彼は目を見開いた。その声には確信の響きがあった。
「この子なら、育て方次第で僕の望む王妃になれる、と」
確かに昔からエドワード様は聞かなくても、何でも教えてくれた。勉強に礼儀作法、剣術だって。言われてみれば、エドワード様のおかげで今の私があるのかもしれない。
「昔からヴェルノワール家が邪魔だと思っていた。何をするにも関わってくるし、お父様
の判断も君たちの同意なしには通らない」
「だから、私を育てて内側から動かそうとしていたのですか……」
目の前にいるのは、もう私が知っているエドワード様ではない。いや、もしかすると、最初からそんなものは存在しなかったのかもしれない。
「だから、君には僕だけを見て欲しかった。だから徹底的に君を他者から遠ざけた」
私が人付き合いが苦手なのだと思っていた。自分には友達が出来ないのだと思っていた。けどその思考すら、すべてこの人が望んだことだったなんて。
「大体、おかしいとは思わなかったかい?なぜみんなが君から離れていくのか。ヴェルノワール家の力があるから?それにしたって離れすぎじゃないか?」
彼は愛情と支配欲のこもった歪んだ笑顔をこちらに向けてきた。
「そう、僕が離していたんだ。君を守るためだ、と言ってね」
アリシアの記憶の中から、かつて自分の周りにいた人間たちが浮かんでは消えていく。そのたびに、エドワードの言葉が重なった。
『アリシアには僕がいるじゃないか』
幼い頃。友達ができないことを寂しく思っていた自分に、彼はそう言った。
『君は一人でも何も悪くないよ』
自分だけが取り残されているように感じた日に。彼は優しく笑って、そう言った。
『他の人と無理に仲良くする必要なんてない』
誰かと話そうとして失敗した日。エドワードは、いつも自分を慰めてくれた。
あの言葉があったから。自分は、一人でも平気なのだと思っていた。
「いやでも、僕の十年越しの計画が、たった一ヶ月で頓挫するなんて。全くいい迷惑だよあの人は」
アリシアは何も言えなかった。
「おかげで、君は追い出すしかなくなっちゃったな。まあ、都合のいい女の子はいくらでもいるからいいとして、ヴェルノワール家とは、面倒くさい関係になった、どうしたものか……」
ただ、胸の奥から猛烈な怒りが込み上げてくる。
自分のことなら、もう多少我慢できる。確かにこの人がそう思うのも無理はない。思い返せば昔から本当に欲が無かった。何が好きかと聞かれれば、みんなが好きなもの。
何を食べたいかと聞かれれば、みんなが食べたいもの。
それが私だった。だから、今回のことも不思議とあまり痛くはなかった。
けれど、マリアは違う。あの人だけは、最初から私を見てくれた。ヴェルノワール家の公爵令嬢ではなく、私という人間を。
先生を傷つけることだけは、どうしても許せなかった。
「……で、どうする?僕に刃向かったら命はないと、君がそう言ったんだろう?」
エドワード様、いや、こいつだけは絶対に許さない。
あれを解放する。一ヶ月。マリア先生と出会ってからエドワードに忠告を受けてから、一ヶ月用意してきたあれを解放する時が来た。
もう迷う理由はなかった。
「いいでしょう。そこまで言うのなら、あなたをこの学園から去らせてみせましょう」
アリシアは傍に控えていた侍女を手招きした。そして、誰にも聞こえないほど小さな声で何かを耳打ちすると、侍女の顔が、みるみるうちに変わった。
「……よろしいのですか?」
「ええ」
しばらくして、鐘の音が鳴り響いた。夜中に突然なり響く轟音が王都中を駆け巡る。
「さて、何が始まるのかな」
小さな混乱が、広間を駆け巡ったその直後。
扉の外から、一人の使用人が慌ただしく駆け込んできた。
「ご報告いたします!ヴェルノワール家より、王家との契約を解除するとの通達が!!王家御用達の菓子工房から、契約更新を見送るとの連絡が!!」
「ふむ、そうか……」
エドワードは大して驚きもせず、私の方を見た。報告を聞き終わった後、拍子抜け、といった顔をした。
「して、これがお前の反撃とやらか?王宮には他にも店が……」
言い終わる前に、今度は次の侍従がやってきた。
「今度は何だ」
「ご報告です!!王宮への花弁納入契約を打ち切るとの連絡が!!」
「まあ、それも別に大したことは……」
続いて、別の侍従がやってくる。
「王族用の馬車整備契約が一件、王宮の衣装仕立てが二件!!」
これにはさすがのエドワード様も眉をしかめる。
「アリシア。いい加減にしないか。処理するこっちの身にも……ん?」
エドワード様が窓の外に気づいた。夜会の静かで荘厳な雰囲気は外から聞こえる人々の声によって、少し乱れされてる。それに少し気分を悪くされたエドワード様は窓の方へと歩き出した。
「おい、少し静かにしないか……こんなに誘った覚えは……」
それを見た瞬間、エドワードの表情は凍り付いた。
「まさか……これ全て……」
「ええ」
私が何をしたのか、エドワード様はようやく分かったようだ。
私にも異様な光景に見える。それはまるで、王都一の祭りのようだった。窓から見える学園の通りが、従者で埋まり始めている。一人、また一人、報告に来る従者たち。奥の方からもまだ走ってくるのが見える。まるで誰かに呼び寄せられるかのように。
その数は、数十、いや数百……。いや、まだまだいる。
「一体何人いるんだ……」
食料の製造工場の打ち切り。王家御用達の工房の契約更新の拒否。運送業者の契約の撤廃。高山からの納入契約の解除。王都中に広がるあらゆるヴェルノワール家との契約。
一つ一つならたいしたことは無い。だが、それが百になり、二百になり、さらに増えていけば話は別。
エドワード様は私個人と戦っているのではない。ヴェルノワール家という途方もなく大きな王都のうねりそのものと今、対峙しているのだ。
思わずエドワード様は腰を抜かした。
「な、何を考えているのだ、ヴェルノワール家は……」
大広間がざわめき始める。
「私がしたこと。それは、王都のヴェルノワール家が提携している店、工場、馬車すべての契約を他国に変更させることです」
ヴェルノワール公爵家は、ただ王家に従っていたわけではない。王家と同じだけの力を持っていたからこそ、これまで均衡が保たれていたのだ。
「その数、ちょうど千件になります」
そして今、その力を、アリシアは初めて自分の意思で動かした。
「千件……」
その言葉にエドワードの顔がこわばった。
「は、ははは。こんなくだらないことで。婚約破棄をしただけ。つまらない教員を解雇しただけ。そうだろう。だが、それだけで……」
王都で最も怒らせてはいけない存在。それを今理解したのだろう。
「君は、国家を崩壊させるというのか」
もちろんこんなのは、脅しに過ぎない。すぐには実行できないだろうし、やったらそれこそヴェルノワール家だって倒れるかもしれない。国家を崩壊させる。私にそんなつもりはない。私はただ先生を守りたかっただけだ。
だがエドワード様から見ればただ事では済まないはずだ。公爵令嬢との婚約を一方的に破棄した。それだけなら、まだ話し合いで済んだかもしれない。
けれど今は違う。公爵家との関係を決定的に悪化させ、国家にとって重要な契約を千件も失わせた。それにエドワード様は公文書偽造という悪事を犯している。
これが国王陛下に知られたら、どうなるか。それはエドワード様にも想像がつくだろう。
これは賭けだ。ヴェルノワール家が動いたと言えば、エドワード様でも認めるわけにはいかなくなる。
エドワード様の忠告に背いた時から、こうなるかもしれないという危機はあった。
そのために、一ヶ月かけて父に頼んで方々を駆け回った秘策。マリア先生を守るための秘策。
まさか私が先に婚約破棄をされるとは思わなかったが。
「もし、エドワード様がその紙を破り捨てて、マリア先生に危害を加えない約束をして、もうこの学園に近寄らないと誓ってくれるのであれば、この件は見送ることにしてあげましょう」
私はエドワード様の顔を真っ直ぐ見つめる。
「さあ、どうされますか?」
彼の拳が、わずかに震えている。怒っているのだろうか。悔しいのだろうか。
だが、エドワード様は飲まざるを得ないはずだ。千件も契約が切れたら、王家は間違いなく衰退する。
やがて彼はゆっくりと息を吐いた。
「……君の条件を呑もう」
そう言うと、足下の書類を拾い上げ、二つに裂いた後、侍従を呼ばせ、契約書に署名をし始めた。
私はそれが確定するまで、口約束としてうやむやにされないよう、黙ってそれを見届けた。
大丈夫。今度は本当の契約書だ。
「マリア先生には手を出さない。僕はこの学園にはもう関わらない。これで満足かな?」
「はい」
私は努めて冷徹にそっけなく即答した。さっさといなくなって欲しかった。
私を騙し、先生を傷つけたエドワード様。醜い権利欲の男。その顔面を拝みたくなかった。
「……本当に変わったね」
エドワード様の声は先ほどまでより、低かった。口元がごくわずかに歪んでいる。
悔しさを押し殺そうとしているようにも見える。
今までならエドワード様が何を考えているのか、何を望んでいるのかを必死に考えていた。
不機嫌にしてはいけない。人のためを考えて生きなければ。ずっとそう思っていた。
けれど今は違う。彼が何を思おうが、もう私には関係なかった。
「……覚えておけ、アリシア」
吐き捨てるようにそう言うと、エドワード様は踵を返した。
昔は怖かったかもしれないけれど今は何も考えなくていい。
私はただ、静かにその背中を見送った。
◇
それから数日。
学園には少しずつだがいつもの空気が戻り始めていた。
あの夜会で起きたことは、当然のように街に広がり大きな騒ぎになった。
王太子と公爵令嬢の婚約破棄。偽造された書類。そして、ヴェルノワール家と王家の契約破棄未遂との関係悪化。王太子が学園をやめ、第一王子の座を降りたこと。
これには黒い噂として多少広がったらしい。
でも、私にはどうでもいいことであった。
「おはようございます、アリシア様」
「おはようございます、先生」
以前なら人の気配が近づくだけで、周囲の生徒たちが道を空けていた。
だが、今は露骨に態度を変えるものはいない。
それだけなのに、不思議と心が温かくなった。
「……なんか、嬉しそうですね、アリシア様」
「先生はよく見ていますね」
そんな他愛もない会話をしながら、二人は教室へ向かう。
以前の私なら、こんな日常がやって来るなんて思いもしなかった。
誰かと並んで歩くこと、くだらないことを話すこと。
そんなもの無くていいなんて諦めていたかもしれない。
「あれ、今日はアリシア様、野菜残してませんね」
「あなたがうるさいから……」
「私がうるさいおかげで、野菜を克服できたじゃないですか!よかったです。でも、食べ過ぎて午後の授業寝ないでくださいよ?」
「……寝ませんよ」
マリア先生は本当にうるさい。時々、少しだけ腹が立つこともある。けれど、不思議と嫌ではなかった。遠慮無く言葉をぶつけてくれることが嬉しかった。
相手の顔色をうかがって言葉を選ぶ必要も無い。身分を気にする必要も無い。ただ一人の人間として向き合ってくれている。それが嬉しかった。
最近、あっという間に一日が過ぎる。
「……じゃあまた明日、先生」
「ええ、また明日」
明日も、明後日も、来月も、こうして先生といられる。
誰かに決めてもらわなくていい。誰かの望む答えを選ばなくてもいい。
「……学校ってこんなに楽しかったんだ」
ぽつりとつぶやいて、アリシアは馬車の中から空を見上げた。
夕暮れの空は、どこまでも穏やかだった。
終
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