7話 知る者と知らざる者
煎じた薬を、母の唇にそっと含ませる。熱に浮かされた喉が小さく動き、わずかに飲み込んだのを確認してから、レナはようやく息を吐いた。鍋の中では銀の葉脈の草がゆらりと揺れ、淡い匂いが部屋に満ちている。
そのとき、乱暴に扉が開いた。
冷たい夜気が土間に流れ込み、それに混じって強い酒の匂いが一気に広がった。鼻の奥がつんとする。甘ったるくて、古い木に染みつくような匂い。
「……ちっ」
低い舌打ち。
父だった。
足取りはまっすぐじゃない。靴の裏が土間を擦り、片足が少し遅れてついてくる。壁にぶつかりそうになって、手をついて体勢を立て直す。
肩が落ちているというより、上半身が前に傾いている。酔いで重心がずれているだけだ。
目は赤く、焦点が定まりきっていない。それでも完全に潰れてはいない。理性が半分だけ残っているせいで、機嫌の悪さがそのまま表に出ている。
外の冷気で頬が赤くなり、息が酒臭い。そんな父は家の中を一瞥し、眉間にしわを寄せた。
ふと棚を見て、金の小袋が減っていることに気づく。
「おい、レナ。俺の酒代はどこへやった。
……また薬を買ったのか?」
怒鳴る前の、かすれた問いだった。
その小袋は、今朝薬草屋に向かう時に持ち出した。父に知られれば止められるとわかっていたから、黙って持ち出した。
酒代に消えるはずだった金だ。
結局は使わなかったが棚に戻すのもなんだか癪だったでこっそり隠しておいた。またいつかの緊急時に使う時が来ると思ったからだ。
レナは父の問いに対して首を振り、「買ってない」とだけ答えた。別に嘘はついてない。
その言葉に父の眉が寄る。薬草の匂いに気づいたのか、父は鍋へ近づいて煎じられた葉を覗き込む。乾燥薬草とは違う、生の匂い。薬草屋でも見たことがない葉の形。
その瞬間、酔いが少し引いた。
「……どこで手に入れた」
レナは迷わなかった。
「森」
父の顔色が変わる。怒りというより、血の気が引くような変化だった。
「森……だと?まさか、境界線は越えてないだろうな?」
「………越えたよ」
父はしばらく瞬きもせず、私を見つめていた。
唇だけが、空気を噛むように震える。
理解が追いついた瞬間、抑えきれなくなった怒りが噴き出した。
「馬鹿かお前は!!」
拳を机にたたきつけ、鍋の湯が揺れる。
「なんでそんなことをした! あそこがどういう場所かお前も知ってるだろう!」
「だってお母さんが───」
「分かってる!!」
遮る声は荒く、眼光は鋭い。だが、その瞳の奥にあるのは恐怖だった。
父は大きく息を吸い、吐き、椅子に崩れるように座る。乱暴な男の姿勢ではなく、疲れ切った男のそれだった。
「……昔な」
ぽつりと、独り言のようにこぼす。
「この村じゃ、ずっと向こうとは関わらないって決まりだった。森の奥の獣人族とは境界より先に踏み込まない。向こうも来ない。それで何十年も何事もなくやってきた」
語り始めた父の指先は、僅かに震えていた。
「けどな、平和ってのはな、長く続くと“本当に必要なのか”って言い出す奴が出てくる。若い連中は向こうを見たこともないくせに、“ただ怖がってるだけじゃないか”ってな。狩り場も少しずつ減って、森の様子も変わって、境界の見張りだって昔ほど厳しくなくなってた」
掟が形だけになりかけていた、という言い方。
「そんな時に外から来た旅人が言ったんだ。“俺は他の土地で獣人と交易してる村を見た”“話せば分かる”“敵にしてるのは思い込みだ”ってな。あいつは地図も持ってたし、実際に別の土地の話も知ってた。嘘を言ってるようには見えなかった」
父の声は平坦だが、わずかに硬い。
「村の連中はな、最初から飛びついたわけじゃない。何度も話し合った。長老も反対した。でも、“今のままでいいのか”って空気がもう出来上がってたんだ。境界を守る理由より、変える理由の方が大きくなってた」
鼻で笑う。
「だから決めた。“一度だけ、話をしてみよう”ってな。掟を破ったんじゃない。試しただけだと思い込んだんだ」
笑うでもなく、泣くでもない声。
「最初はうまくいってた。互いの長が話し合い、それを何度も繰り返していく度にいつからか物々交換もするようになっていった。だが、ある日、誰かが勘違いをした。あいつが盗んだ、こいつが裏切った、そんな話が広まってな。どっちが先に武器を抜いたかなんて、今じゃ誰も分からん。ただ──血が流れた」
レナは初めて聞く話に、息を止める。
「俺も、その場にいた…、守れなかった」
かすかな声。
「隣にいたやつを。止められなかった。あっという間だった」
その言葉で、レナは初めて気づいた。
父が酒に逃げる理由を。
「それ以来だ。森の奥へは入らない。向こうと深く関わらない。森の浅瀬と奥地の間をお互いの境界線にした。越えなければ、少なくともあの時みたいなことは起きないってな」
父は顔を上げる。先程の鋭い眼光はもうなく、ただ怯えている目をしていた。
「俺はな、レナ。強くない。だから線の内側で生きるしかない」
静かな告白だった。
「バイルに教わったのか」
低く問う。
「…うん」
「あいつは……昔境界線を越えて戻ってきた男だ。俺とは違う。何を見たかは知らないが、あいつは森の奥地を…境界の外を知っている」
だから詳しい。
だから止めた。
それでも、教えてくれた。
父はゆっくりと息を吐き、
「森はな、壁じゃない。溝だ。簡単に命を落とす」
少し間を置き、続ける。
「向こうには向こうの掟がある。俺たちの常識は通じない。獣人には獣人の掟がある。俺たちが守ってきた常識も、理屈も、向こうでは意味を持たない。互いに“間違っている”と思ったままぶつかれば、また血が流れる」
低い声が、静かに部屋へ落ちる。
「だから村は、関わらないと決めたんだ。知らなければ、踏み込まなければ、少なくとも壊れはしないからだ」
レナは鍋の中を見る。銀の葉脈が、湯の中で揺れている。
森で見た命。
森で出会った少女。
父の過去も言葉も、嘘じゃない。
ミアが助けてくれた事実も、嘘じゃない。
「……知らなかった」
その言葉を聞いて、父は力なく笑う。
「知らないほうが、楽なんだよ」
それは怒鳴り声ではなく、弱音だった。
その時、母がかすかに咳き込む。父はすぐ立ち上がり、額に手を当てた。その仕草は乱暴ではない。むしろ、壊れ物に触れるように慎重だ。
「……熱、少し下がってるな」
安堵が滲む。
酒に溺れ、家族を怒鳴る男。
けれどそれは、守れなかった過去から目を逸らすための鎧だった。
「境界線を越えたこと、誰にも言うんじゃないぞ」
レナは何も答えない。
ただ、はっきりと分かる。
父は線の内側で生きると決めた。
それ自体は、罪だとも弱いとも思わない。
しかし自分は、線の向こうを見てしまった。
真っ直ぐ生きる少女、ミアと出会ってしまった。
もう、獣人族のことを前と同じように見ることは出来ない。
夜は静かに更けていく。
家の中には、獣人族への恐怖を知る者と知らざる者の相対する2人が、病床に伏す母の隣に静かに座っていた。




