29話 ラグナスをめざして
「ミア、おはよう」
カーテン越しの光に目を細めながら声をかけると、隣の小さく布団が動いた。
「……ん……」
「朝だよ」
「……敵襲?」
「平和な朝イチの第一声がそれ?」
薄く目を開けたミアが、ぼんやり天井を見上げる。窓から差し込む光が床を白く照らしている。
「……夜中、何もなかった?」
「うん。敵襲も物音もなし。ミアも一回も飛び起きてない、と思う。私は爆睡してたからわかんなけど」
「……起きてない。私もちゃんと寝てた」
そこでようやく、ミアは小さく息を吐いてから、ゆっくりと上体を起こした。布団が肩から滑り落ち、朝の光が横顔を照らす。まだ完全に覚醒していないのか、目は少し細く、瞬きもゆっくりだ。
寝起きのせいで髪があちこち跳ねていて、いつもはきちんと整っている前髪も微妙にずれている。
そのまま数秒、ぼんやりした顔でこちらを見る。
……あ、珍しい。
普段は隙のないミアなのに、今はどこか無防備で、年相応というか、ただの十四歳に見えた。
私はつい口元を押さえる。
「なに」
まだ少し低い、寝起きの声。
「いや、髪。すごいことになってる」
「……」
ミアは無言で自分の頭に手をやる。触った瞬間、指先に引っかかる感触があったのか、わずかに眉が動く。無言で寝癖を直そうと手櫛を通すけれど、ぴょんと跳ねた部分はなかなか言うことを聞かない。
それが妙におかしくて、私はまた笑ってしまった。
「昨日あれだけ警戒してたのに、ぐっすり寝れたみたいだね」
「うん。久々にゆっくり寝れた。そういえば、やっぱりレナが先に寝息立てた」
「えっ」
「五分」
「嘘でしょ!?」
「正確には三分くらい。あと途中で、なんか言ってた」
「えっ、何!?へ、変なこと言ってないよね?」
恐る恐る聞くと、ミアがわずかに口元を緩める。
「“甘いパン……”って」
「ふ、ふーん…」
確かに夢でパンを食べていた気がする。まさかそれが声に出ていたとは…、しかも聞かれてるだなんて…。ニヤニヤしているミアの顔を見て、誤魔化すように私は伸びをした。するとびっくり。なんと体がちゃんと軽いのだ。まるで、昨日までの体のだるさが嘘みたいだったかのように。
「睡眠、いや安眠って大事なんだね…」
「それはそう」
「そういえば、右足はどう?痛みは落ち着いた?」
「まだある。でも日に日に良くなっていってるから大丈夫」
実際、ゆっくりと右足を動かして確認している。顔はしかめているけれど、きっとそれは寝起きは痛みが出やすいからだろう。とにかく、
「無理しないでね」
「お互いね」
「私は無茶しない派の安全第一主義だから大丈夫」
「昨日、足に包帯巻いてる最中に前のめりになってた」
「それは不可抗力だよ!」
「無理せず言ってくれたら、私が巻くのに」
「…次から頼もうかな」
そんなことを軽く言い合いながら、私はベッドから足を下ろす。窓の外から、荷車の軋む音と人の話し声が聞こえる。どこかで店の戸を開ける音もした。
ミアがその音に耳を澄ませる。
「……平和」
「ね!あ、朝ごはんどうする?」
「まず顔洗う」
「うん!その後の朝ごはんどうする?」
「…そんなにお腹すいた?レナ、何食べたい?」
「私は甘いもの優先なんだけど、甘いパンがあるなら即決」
「朝から?」
「朝だからだよ。元気の源」
呆れた顔をしながらも、ミアもベッドから降りた。荷物をまとめて階下に降りると、宿の女性がカウンターの向こうでパンを切っていた。
「おはよう。早いね」
「ラグナス行きは朝早いって聞いたので!甘いパンはありますか?」
「ははっ!朝から元気だね。はい、甘いパンだよ。それにしてもまだ若いのに偉いね。御者には昨日のうちに伝えてあるから大丈夫だよ。」
「わぁ!ありがとうございます!いい匂い…」
素直に言うと、女性は嬉しそうに笑った。
「ならよかった。まだ少し時間はあるからゆっくり食べな。あと、気をつけて行くんだよ。街は広いからね」
「はい!」
手を振られて、私も振り返す。たった一晩なのに、背中を押してもらった気がする。
朝食を食べて外に出ると、朝の空気がひやりと頬を撫でた。広場にはすでに馬車が止まっている。木製の車輪に、幌つきの荷台。馬が地面を軽く踏み鳴らしている。
「ラグナス行きか?」
御者がこちらを見た。無精ひげの中年の男。特別怖そうでも優しそうでもない、ごく普通の人。
「はい。二人です」
「あぁ、昨日のはお前たちのことか。女将から聞いてる。荷物そこな。走り出したら揺れるからちゃんと掴まっとけよ」
余計な詮索をされることもなく、あまりに普通だったので、少し安心する。荷台に乗り込むと、商人らしき人がすでに座っていた。
「おやおや、ちびっこ旅人さん方。お二人もラグナスまでご一緒ですかな?ほっほっほ、お若いのにすごいですなぁ。おっとこれは失礼、私はしがない行商人でございます。」
「なんか、胡散臭い」
ミアがぼそっと返す。
「ははは、手厳しいですなぁ。しかし安心なされよ。わたくし、見た目は怪しいとよく言われますが、商いは誠実主義ですぞ!」
「それ自分で言う?」
「言いますとも。自己申告は大事ですからなぁ」
やっぱり胡散臭い。でも、目はちゃんと笑っている。なんとなくだけど悪い人じゃない気がする。
そんな事を思っていると、広場の方から来たおばあさんが、杖をつきながらゆっくりと馬車に乗り込んできた。
「ああ、よいしょ……っと」
御者に軽く礼をしてから、こちらに気づく。
「あらまあ。お嬢さんたちもラグナス行きかい?」
にこにこと目を細める。
「若いのに、二人旅かい。えらいねぇ…ラグナスは広いよ。道も入り組んでるし、人も多い。ぼんやりしてると、あっという間に迷子だよ。はぐれないようにね」
「私はならない。レナは迷子になる」
「ならないよ!?」
思わず大きな声が出る。ミアが横でくすっと笑う。
「その自信、どこから」
「私にはミアがいるからね!」
その時、御者がこちらを振り返って人数を確認した。
「…全員揃ったな。そろそろ出発するぞ」
御者が手綱を鳴らす。パチンと乾いた音に反応して、馬が鼻を鳴らし、ぐっと体を前に傾けて地面を踏み込んだ。
遅れて、車輪がきしむ音を立てながら回り始め、馬車がゆっくりと動き出す。振動に揺られながら外を見ると、ハルヴァ村の景色が少しずつ後ろへ流れていき、やがて村の入口を越えた。
木で組まれた簡素な門と、その横に立つ見張り台が視界の端を通り過ぎる。見慣れた景色が、少しずつ遠ざかっていく。蹄の音が一定のリズムで続き、車輪は途切れることなく回る。
やがて村の建物がだんだん小さくなり、やがて森と畑に隠れて見えなくなった。
二十日かけて辿り着いた、最初の村。
屋根があって、温かいご飯があって、ちゃんと眠れて、体を休めて、次に進む準備をした私たちの思い出の場所。1日しかいなかったけど、なんだか濃い1日を過ごせたと思う。
次に行くのは都市ラグナスだ。私がいた村とも、ミアのいた里とも、このハルヴァ村とも比べ物にならないくらい大きい街。
「緊張してる?」
「ちょっと。でも、楽しみのほうが勝ってるよ」
本当だ。怖さは確かにある。知らない街で知らない人ばかり、何が起きるか分からない。でもそれ以上に、これから見るものへの期待のほうが大きい。
そんな私たちの会話を耳をそばだてて聞いてた行商人がニコニコしていた。
「ほほう!ワクワクということですな!いやぁ良いですなぁ。街は挑む者に優しく、怯える者に厳しいですからとても良い心構えですぞ!」
「どっちでも優しくしてほしい」
ミアがぼそっと言う。
それに反応した御者が後ろを振り返らずに言った。
「街は広い。いい奴も悪い奴もいる。だから悪い奴らに騙されたり、変な奴に着いていったりするんじゃないぞ」
「はい!気をつけます!」
「はっはっ、大丈夫かねぇ。獣人のお嬢さんや、お友達のことしっかり守ってやるんだよ」
「えぇ!?私そんなに危なっかしく見えてる!?」
その言葉に、御者が小さく鼻で笑い、行商人が大げさに肩をすくめる。おばあさんもミアもわずかに口元を緩めた。張りつめていたわけじゃないのに、馬車の空気がふっと軽くなる。
車輪はきしみながら、ゆるやかな上り坂へとかかる。馬の呼吸が少し荒くなり、蹄が土を踏みしめる音が重くなる。幌の影が揺れ、光が細かく揺らめく。
私は背中を板に預け、そっと空を見上げた。
雲が、ゆっくり流れている。
高くて、広くて、何にも縛られていない空。
森を抜けた日も、きっとこんな空だったはずだ。あのときも雲は流れていて、風は吹いていて、世界は何も変わらず動いていた。
でも私は、見ていなかった。
あの時は必死だった。足を止めないことだけで精一杯で、振り返らないことだけで限界で、空を見上げる余裕なんて、どこにもなかった。
今は違う。
同じ空なのに、ちゃんと目に入る。流れる速さも、光の色も、風の匂いも、わかる。
それだけで、自分が少し前に進んだ気がした。
「レナ」
「ん?」
私は空から視線を下ろし、ミアを見る。
「もし街で、強くなれる方法見つかったら、どうする?」
「強くなれるならとりあえずやってみる…かな」
「即答だね」
「そりゃ、守るって言ったしさ。それに、目的を叶えるにはきっと強さは必要だと思うし」
「……私も強くなる」
「うん。並んで強くなろ」
行商人が小さく拍手する。
「若い、若いですなぁ。ラグナスは武具屋も、剣術道場も、魔術書店もありますぞ」
「魔術書店?」
思わず身を乗り出す。
「そうです!魔術や魔法の知識が記された本ですぞ。値は張りますが…、まぁ魔力適正に合った物を買えば間違いないですな!」
「魔力適正?」
聞き返しながら、自分の胸の奥に意識を向ける。
魔力。
言葉としては知っている。でも、それがどんな形で自分の中にあるのか、ちゃんと考えたことはなかった。村で生きるのには魔力も剣も必要なかったからだ。
行商人は得意げに顎を撫でる。
「人にはそれぞれ向き不向きというものがありますぞ。火に親和する者、水に愛される者、風と相性が良い者。逆に、適性があっても魔力が中途半端な者やそもそも適性がない人が多いですからなぁ。とにかく、自分の“質”を知らずに高い本を買うと、ただの紙束になるということですな」
ただの紙束。
その言い方に、現実の重みを感じる。
ミアが静かに口を挟む。
「適正はどうやって分かるの」
「基本的には皆、8歳になったら教会や冒険者ギルドで水晶に少量の魔力を流して自分の適性を測るものです。たまに測ったことない人がおりますが、そういった人達も同じく、教会や冒険者ギルドで測りますなぁ。
これから旅をなされるのなら、多少のお金はかかりますが、適正は測っていて損は無いですぞ」
お金。現実が顔を出す。
私は袋をそっと触る。色々揃えるには心許ない重さだ。
「街に着いたら、まずは働く」
ミアが呟く。
「え、いきなり?」
「お金いるでしょ」
「……まぁ、確かに」
夢だけじゃ街では生きられない。正直、働かずに済むなら働きたく無いが仕方ない事だ。
その時、遠くの丘の向こうに灰色の影が見え始めた。最初はただの岩山かと思ったけど、馬車が進むにつれてそれが人工のものだと分かる。まっすぐに伸びる線、規則的な高さ──やがてそれは、高い石の防壁だと気づいた。
街道はなだらかに続き、その両側には広い畑が広がっている。荷を積んだ荷車が行き交い、商人らしい一団が馬を引き、鎧を着た兵士の姿も見える。ハルヴァ村とは明らかに人の数が違う。街に近づいていることを実感させた。
「もうすぐだな」
御者が前を見たまま、落ち着いた声で言う。
「見えてきますぞ」
向かいの商人が身を乗り出すのにつられて、私も体を前へ傾けた。
視界の先に、はっきりと石壁が広がっている。一定の間隔で見張り台が立ち、その上には旗が揺れていた。門の前にはすでにいくつもの馬車が並び、人の列ができている。
「あれが……」
思わず声がこぼれる。
「あぁ、都市ラグナスだ」
御者が淡々と告げる。
都市ラグナス。
遠目でも分かるほど大きい。壁の高さも、門の幅も、行き交う人の多さも、村とはまるで違う。あそこに入れば、見えるものも聞こえるものも、きっと今までとは変わる。
気づけば、私は隣のミアの袖をつかんでいた。
ミアもまた、同じ方向をじっと見ている。表情は落ち着いているけれど、視線は真っ直ぐで、わずかに力が入っているのが分かった。
「……行くよ」
小さく言うと、
「うん」
短い返事が返る。
馬車は速度を落とし、門へ続く列に並んだ。石壁がすぐ目の前まで迫り、見上げるほどの高さになる。門の上で動く兵士の姿もはっきり見える。
緊張はある。知らない場所に入るという感覚が、体を少しだけ硬くする。
それでも目は逸らさない。
馬車はゆっくりと門へ近づいていく。
私たちは今、都市ラグナスの入り口にいる。




