28話 大丈夫だよ
数時間後、水を浴びて火照った体を落ち着かせ、簡単に拭き終えた私たちは、それぞれ寝る準備をしていた。ベッドに腰を下ろし、濡れた髪を指でほぐしていると、なんとなく落ち着かない感じがした。
……見られてる。
顔を上げて、感じた視線の方を見ると、ミアが向かいの椅子に座ったまま、まっすぐじっとこちらを見ていた。
その目は、さっきみたいなふざけ合っている時のような目ではなく、ただ何かを確かめるような、そんな静かな目だった。
「……ねえ」
少しだけ間を置いてから、ミアが口を開く。
「最近、無理してない?」
その問の意味がわからなくて、私は思わず瞬きをした。
「え、 何が?」
「なんかさ。レナ、最近ずっと明るい」
「それ、悪いこと?」
「悪くはない。でも」
ミアは言葉を探すように、視線を落とす。
「元々のレナ、私は知らない。だから比べようがない。でも、この前あんなことがあって……両親、あんなふうに殺されて、それで普通、もっと沈むと思う。なのにレナは笑ってる」
部屋の空気が、少しだけ重くなり、私はどう言葉を返そうかと天井を見上げる。考え始めるとあの日の光景が勝手に浮んできた。焦げた匂い、目の前で息を引き取った父に、最期の言葉も聞けぬまま冷たくなった母。
喉の奥が、じくりと痛む。
「……まあね。正直、今でもきついよ。思い出すだけで胸がぎゅってなるし、夜、ふとした瞬間に顔が浮かぶ。たぶん、一人だったらずっとそこに座り込んでたと思う」
本当のことだ。座り込むどころか、一人なら旅にも出ることもなかったと思うし、あの村でずっと塞ぎ込んでいたままだったと思う。
「すごく落ち込んでたし、今だって全部吹っ切れたわけじゃない。でもさ」
私は少し肩をすくめて笑う。
「ミアがいたじゃん。怪我してたし、放っておけなかったし、守りたいって思ったし、助けるって約束したし」
あのときは考える余裕なんてなくて、ただ必死だった。でも、その必死さが救いだったのかもしれない。
「それに、外に出るの初めてでさ。見るもの全部知らないものばっかりで、怖いけど……正直、楽しいんだよね」
森の匂いも、街のざわめきも、空の広さも、全部が初めてで。
「悲しいまま止まるより、今はそっち見てたいっていうか」
なんだか少し照れくさくて、笑ってしまう。
「もちろん、今だって悲しくないわけじゃないよ。辛くないわけでもない。でも、それと同じくらい、今をちゃんと見てたいって言うか、」
ミアは黙って聞いている。
「とにかく、無理して明るくしてるわけじゃないよ。泣きたくなったら、そのときはちゃんと泣く。でも、今は前を見てたいだけ。それにさ…ずっと沈んでたら、たぶんお母さんに怒られる」
思い出すと、自然と頬がゆるむ。
お母さんは、声を荒げる人じゃなかった。怒るときだって、どこか困ったみたいに笑っていて、最後には私の頭を撫でながら「ほら、顔あげて」って言う人だった。
朝はいつも台所からいい匂いがして、鼻歌が聞こえてきて、その声を聞くだけで楽しい気持ちになれた。転んで泣いたときも、「痛いのはちゃんと頑張った証拠だね」って、まず抱きしめてくれた。
優しくて、あったかくて、明るくて、でも少しだけ強い人。
きっと今も、泣き続ける私を見たら困ったように笑って言うんだ。
“そんな顔してたら、せっかくの今日がもったいないでしょ?”って。
「だから、私はもう大丈夫だよ」
長い沈黙のあと、ミアが小さく息を吐く。
「……そっか。ならいい」
「ずっと心配してくれてたの?」
「ただの確認。無理してるなら、止めるつもりだった」
「止められるかなぁ?」
「止める」
真顔で言うから、思わず笑ってしまう。
「ありがとね」
「あと、別に私は、守られるつもりないけどね」
「うん、知ってるよ」
「…けど、隣にはいてもらう。あと、守る側なのは私」
照れくさそうに言ったその言葉が、やけにまっすぐ胸に落ちた。
悲しみは消えない。でも、ミアとじゃれ合って笑っている自分も、新しいものに出会って喜んでる自分も、全部嘘なんかじゃない。
旅ができてることも、気にかけてくれてたことも、隣にいてもらいたいって思ってくれてることも、お互い守り合いたいと思えてることも、全部が嬉しくて、ぎゅっとミアに抱きついた。
「ニャ!?」
「えぇ!?ミアって驚いたときそんな猫らしいこと言うの!?」
「…うるさい。レナが急に来るから」
文句を言いながらも、押し返さないどころか、ほんの少しだけ力が返ってくる。その体温がじんわりと伝わってきて、胸の奥まであたたかくなる。
こんな日がずっと続けばいいな、と心からそう思えた。
ミアの里を襲ったやつのことも、私の村を壊した魔獣のことも、ちゃんと調べないといけない。向き合わなきゃいけないことは、きっとこれから今以上に出てくると思う。
それでも今は…
今だけは、こうしていさせてほしい。
隣にいるぬくもりを確かめながら、同じ鼓動を感じながら、ただ笑っていたい。
「……もう少し、このままでいい?」
小さくそう聞くと、ミアはため息をつきながらも、逃げなかった。
そのことが、なにより嬉しかった。
抱きついたまま離れない私の肩越しに、ミアが小さく息を吐く。
「……ねえ」
「ん?」
「レナって、今何歳」
唐突すぎて、思わず顔を上げた。
「うん…?12歳だよ?」
軽い気持ちで答えた。年齢なんて、特別な話題でもないと思っていたから。
「……え」
その一音が、やけに重かった。
なにその間。
目が合う…近い。抱きついている距離だから当然なんだけど、急に意識すると変に落ち着かない。近すぎる…だんだんこっちに近づいて来るから、もうキスをするくらい距離だと思うくらいには近い。したことないけど…。
ミアの瞳が私の顔をじっと見つめて、そしてゆっくりと下に落ちていく。
……ん?
え、ちょっと待って。
(ミアさん。君は何故私の胸を見るんだい?)
私の喉が、こくりと鳴る。
ミアは一度視線を戻し、私の顔を見て、また胸を見る。さらに自分の胸元を見る。そしてもう一度、私の顔を…
あ、これ。
理解した瞬間、頭の中で何かが盛大に鳴った。
(あーーーーーなるほどね!? そこ比べてるのね!?いやいやいや、ちょっと待って。今それ? この空気で? さっきまで結構重めの話題だったよね?え、心配してくれててすごい嬉しかったのに全部台無しだよ!?)
ミアは真顔だ。冗談ゼロの顔。
やめて。その本気の目で測量しないで。
「ミアは?」
とりあえず聞き返すしかなかった。声がちょっとだけ上ずったのは、たぶん気のせいじゃない。
「……14」
「2つ歳上だね」
そう言った瞬間、ミアの視線がさらに下へ落ちた。そして、自分の胸元を見る。また、私を見る。もう一度、自分を見る。
(気まずい、気まずいよぉ!何か言わなきゃ、言わなきゃ!!)
「い…遺伝じゃないかなぁ…?」
本人は上手く誤魔化したつもりだが、何の誤魔化しにも、言い訳にもなっていない。むしろトドメを刺しにいっている。瀕死の人に極大魔法を使うくらいのあきらかなオーバーキルである。
「私のほうが年上」
「そ、そうデスネ…」
「…理不尽」
「いやぁ、私からは何とも…」
ミアは本気で悩んでいる顔をしている。十四歳の威厳が音を立てて崩れている。
「ずるい」
「ぶふぉっ!!」
あまりにも真剣な声で言うから、私はこらえきれず吹き出した。
「そんな深刻な顔で言うこと!?」
数秒だけむっとしたあと、ミアの口元もわずかに緩む。
「……ラグナスに着いたら、栄養を増やす。戦闘に影響するかもしれないけど、これはこれで戦闘…いや戦争」
「女の戦争ってこと!?てか目的が変わってる!?」
「成長戦略だ」
「戦略って言うな!」
笑い声が転がる。抱きついたままだから、震えがそのまま伝わってくる。
笑い声がひとしきり弾んで、やがてゆっくりと静まっていく。抱きついたままだからミアの小さな呼吸が、そのまま伝わってくる。
静けさが完全に戻った。さっきまで楽しかった空気が、今度は穏やかなものに変わる。
そのときだった。
「……ここ、襲われないよね」
ミアの声は、冗談の続きみたいに聞こえたけれど、腕にかかる力がほんの少しだけ強くなっていた。
ああ、と気づく。
笑っている間は忘れていられた。でも、静かになると戻ってくる。あの夜のことを、思い出しているのだとすぐに分かった。この二十日間の旅で、既にあの日の状況は聞いていたからだ。
「怖い?」
灯りが消えて、匂いが変わって、静けさが“異常”に変わった瞬間。里に戻ったときの、あの音のない光景。
安全なはずの場所が壊れる怖さを、ミアは知っている。
私も、知っている。
「怖くない」
そう言い切るのが、あまりにも早かった。
考えるより先に出た言葉、という感じの早さだ。声はいつも通り低くて、迷いも揺れもない。敵と向き合うときと同じ、硬くて強い声。
きっとそれは、癖なんだと思う。
弱さを見せる前に、まず否定する。
怖いはずがない、と自分に言い聞かせるみたいに。でも、そのあとの言葉が続かなかった。
部屋の空気が静かに止まる。
ミアは一度、視線を逸らす。ほんのわずかに、眉が寄る。
私を見ていた目が、どこでもない場所を見る。
そして、小さく息を吸い込む。深く、ゆっくりと。
その呼吸は、さっきまでの強い声とは違った。
張りつめていた糸を、少しだけ緩めるみたいな息だった。
ほんの数秒。
たったそれだけの沈黙なのに、すごく長く感じた。それから──
「……いや、正直怖い」
今度の声は、さっきより少し低くて、少しだけ柔らかい。強がるのをやめた声だった。こういう重い話での本音は、どうしても胸がぎゅっとなる。
ミアの恐れが見え隠れしている表情に、私は見ていられなくなってもう一度ぎゅっと抱きついた。
「大丈夫だよ」
根拠なんてない。結界があるわけでも、最強の守りがあるわけでもない。
ここが絶対安全だなんて、私にも言えない。
それでも。
「もし何か来たら、私が起こすし」
「レナが最初に寝るでしょ」
「今日は起きてる」
「いや、レナは五分で落ちる」
「失礼だな!?」
ほんの少しだけ、ミアの肩が震える。けどその震えは、恐れているわけでも泣いているわけでもなかった。
ミアは笑っていた。
「……もし来たら」
ミアが静かに続ける。
「今度は、守る」
「一緒にね」
すぐに返すと、ミアは一瞬だけ驚いた顔をして、それから小さくうなずいた。
「……ああ。一緒に」
外は静かだ。風が窓を撫でる音だけがする。
怖さは消えない。消えないけれど、隣に体温があるだけで、形が変わる。
私は布団を少し持ち上げた。
「おいで?」
「なに」
「今日はゼロ距離で寝る。警戒態勢ってやつだよ」
「それは警戒?」
「んー、じゃあ精神安定。ほら、灯り消すね」
ミアは小さくため息をつきながらも、結局は何も言わずに私の隣へ横になった。布団がわずかに沈み、その重みが伝わる。距離はほとんどなくて、自然と腕が触れ、肩同士もかすかに当たる。その体温を感じると、不思議と胸の奥が静かになっていく。
部屋の灯りは落としてあるから、互いの表情はよく見えない。ただ、すぐそばにいる気配だけがはっきりと分かる。呼吸の音が近い。同じ暗闇の中で、同じ速さで夜を共有している。
そんな静けさの中で、ミアの声が低く落ちた。
「……レナ」
「ん?」
「ありがとう」
それだけ言って、静かになる。
私は何も返さなかった。ただ、そっと手を重ねる。怖さは消えない。消えないけれど、隣に体温があるだけで、形が変わる。
「……ラグナスってさ」
暗闇の中で、私がぽつりと言う。
「でかい街なんだよね?」
「うん。村や里とは比べものにならないらしい」
「甘いもの、いっぱいあるかな」
「またそれ?」
「だって楽しみなんだもん」
少し間があって、ミアが続ける。
「市場も広いらしい。武具屋も多い。人も多い。……情報も集まる」
最後の言葉だけ、少しだけ硬い。
ミアの里を襲ったやつのことも、私の村の魔獣のことも、あの街なら何か分かるかもしれない。
調べないといけない。
向き合わないといけない。でも、
「まずは甘いものからね」
「そのあと情報だ」
「やっぱりミアも甘いもの食べたいんじゃん?」
「効率が悪い」
「心の効率が1番重要ってことね。私もそう思う」
小さく笑い合う。
少しだけ未来の話をするだけで、不思議と気持ちが落ち着く。
“次”があるって思えるから。
私はそっと目を閉じる。
「……ミア」
「なに?」
「ラグナス、楽しみだね」
「……うん」
短い返事。でも、その声はやわらかい。
「……レナ」
「んー」
「おやすみ」
「うん。おやすみ、ミア」
静かな夜は、そのまま続く。
二人分の呼吸が、ゆっくりと同じ速さになっていった。




