27話 ハルヴァ村
村の入口をくぐった瞬間、胸の奥に張りつめていたものが、すっとゆるんだ。自分では気づいていなかったけど、呼吸はずっと浅かったらしい。ようやく大きく息を吸い込むと、空気が肺の奥まで満ちていくのが分かる。森の湿った匂いとは違う、土と煙、それから煮込んだ野菜の匂いが混ざった、どこか懐かしくてあたたかい空気だった。
あちこちから人の声が聞こえる。遠くで誰かが笑い、鍋をかき混ぜる音が、からりと軽く響いて広場に広がる。干された洗濯物が風にあおられ、ぱた、と布のはためく音が重なる。どれも特別なものじゃない。ただの、いつもの当たり前の暮らしの音。
私はその音を、生きている音だと思った。誰かが今日を普通に過ごしている音。襲われる心配もなく、見張りを立てることもなく、火を囲んで眠る順番を決める必要もない。
思わず、隣を歩くミアの顔を見る。彼女も同じ空気を吸っているのに、表情はいつも通り落ち着いている。でも、ほんの少しだけ、目の奥がやわらいでいた。
「やっと着いたね!…ふぅ、夜になる前に着けてよかった」
自分でも驚くくらい、声が軽い。
「うん」
短い返事。それだけなのに、なぜか可笑しくなって、私は小さく笑ってしまう。何が面白いわけでもないのに、頬が勝手に緩む。
二十日間。草の上で眠って、背中の小石を払いながら体を丸め、焚き火の火が消えないように交代で見張りをして、夜の風が強く吹けば目を覚まし、獣の遠吠えに耳を澄ませてきた。雨の気配があれば慌てて布を被り、朝露で濡れた靴を乾かしながらまた歩き出す、そんな日々。
今は違う。目の前には屋根がある。壁がある。煙突から、まっすぐに煙が上がっている。その煙は「ここに人がいる」と教えてくれる印みたいで、見ているだけで心がほどけていく。
ああ、今日はちゃんと眠れるかもしれない、と思った瞬間、足の裏の痛みまで少し軽くなった気がした。
「……ねえ、まず何する? ご飯? それとも水浴び?」
口に出してから、自分の声が浮ついているのがわかる。お腹は確かに空いているし、体も汗と土埃でざらざらしている。でも、それ以上に、何かを“選べる”状況が久しぶりで、どうしていいかわからなくなっていた。
ミアは周囲を一度ゆっくり見渡した。家々の位置、広場、井戸、行き交う人の数。癖みたいに、状況を確かめてから、私を見る。
「……先に宿」
即答だった。
「え、ご飯じゃなくて?」
「先に拠点。荷物を置ける場所を確保してから」
その言い方が、妙に頼もしくて、少しだけ可笑しい。確かにそうだ。森では寝る場所を探すことが一日の終わりの仕事だった。ここでも、まずは眠れる場所を確保する。それだけで、心の位置が決まる。
宿。
ちゃんとした布団。
雨を気にしなくていい屋根。
夜中に物音がしても、すぐ剣に手を伸ばさなくていい壁。
その言葉を頭の中でなぞった瞬間、腰に下げた袋の存在が急に重く感じられた。
出立の前夜を思い出す。薬草屋の裏口、薄暗い灯りの中で、バイルが無言で差し出してきた布包み。開けば銀貨と銅貨がきちんと分けられていて、あの人らしい几帳面さがそこにあった。
“これは貸しだ。死ぬなよ”
本当はそれだけだった。なのに、受け取るとき、私の手を握った指先は、ほんの少しだけ強かった。言葉よりも、その力のほうが残っている。
私は袋を指で弾いて、わざと軽い声を出す。
「大丈夫。ちゃんとある」
ミアが視線を落として、私の腰のあたりを見る。
「足りる?」
「足りなかったら、働く」
「……できるの?」
「皿洗いくらいなら」
「割りそう」
「割らない!」
言い返しながら、少しだけ胸を張る。怖さはある。足りなかったらどうしよう、騙されたらどうしよう、という不安もある。でも、それを今は前に出したくなかった。
ミアはしばらく私を見てから、小さく息を吐く。
「じゃあ、行こ。ちゃんとした場所、確保しよ」
その言い方が、森で焚き火の場所を決めるときと同じで、少しだけ安心する。
私はもう一度、袋の上から硬貨の形を指でなぞった。冷たい感触が布越しに伝わる。それは重さというより、繋がりの証みたいだった。里を出て、村を失って、それでもまだ、私たちはどこかと繋がっている。
「今日は、ちゃんと寝るからね」
「当たり前」
「朝まで一回も起きないから」
「……それはどうかな」
からかわれて、むっとしながらも笑ってしまう。
二人で顔を見合わせる。言葉にしなくても、同じことを思っているのがわかる。ここまで来た。ちゃんと辿り着いた。
小さく頷き合って、私たちは村の中央広場の端の方に見える宿屋へ向かって歩き出した。
宿屋の前につき、ふと足元を見ると、人の出入りが多いせいか扉の前の地面だけ少し踏み固められている。木の看板が軋みながら揺れていて、そこに描かれた簡単な寝台の絵が、妙にまぶしく見えた。
私は一度だけ、ミアを見る。
「……入るよ?」
「うん」
短い返事。でも、その一言で背中を押された気がした。
扉に手をかける。木の感触はなめらかで、何度も開け閉めされてきた丸みがある。ゆっくり押すと、蝶番が小さく鳴り、内側から温かい空気がふわりと流れ出てきた。
思わず、目を細める。
煮込みの匂いと、焼いたパンの香り。かすかに酒の匂いも混じっている。広間には丸いテーブルがいくつか置かれ、数人の大人たちが談笑していた。笑い声が跳ねて、天井の梁に吸い込まれていく。
視線が一斉に、こちらに向く。
胸が、ひゅっと縮む。
森で魔物に見られたときとは違う。けれど、知らない大人たちの目にさらされるのは、それはそれで緊張する。
私は背筋を伸ばす。旅人だとわかるように、堂々と。
奥のカウンターの向こうから、丸顔の女性が顔を出した。
「いらっしゃい」
声は思っていたより柔らかい。
私たちを見ると、一瞬だけ驚いた顔をした。たぶん、年齢のせいだろう。でもすぐに表情を整え、優しく目を細める。
「旅の子たちかい?」
「はい。二人です」
思ったより声が硬い。喉が少し乾いている。
女性は腕を組んで、私たちの足元から頭までゆっくりと視線を走らせた。汚れた靴、擦り切れた外套、背負い袋。
「親御さんは?」
一瞬、空気が止まる。
私はミアと目を合わせないまま、答えた。
「いません。二人で都市ラグナスまで行こうと思ってます」
嘘は言っていない。というか、初対面でわざわざ“先日魔獣に殺されました”とは言わないし、言えないし、言いたくない。
女性は少しだけ眉を寄せ、それから小さく息を吐いた。
「……そうかい、部屋は空いてるよ。二人部屋でいいね?」
「はい」
「前金だよ。朝食は別。明日の朝にラグナス行きの馬車が出るけど、それに乗るのかい?」
その言葉に、胸が跳ねる。
「はい!」
思わず声が弾んだ。周りの大人がくすっと笑う。
女性はにやりと口角を上げた。
「元気だねぇ。なら、御者にはあたしから伝えとくよ。日の出少し前に広場だ。寝坊するんじゃないよ?」
「しません」
ミアがキリッと得意げに答える。
私は腰の袋から硬貨を取り出す。緊張して指先が少し震えているのを悟られないように、ゆっくり数えて、カウンターに置いた。銀貨が木に当たって、重い音を立てる。
女性は手慣れた様子で確かめ、頷いた。
「確かに。ほら、鍵だよ。無くさないようにね」
差し出された鉄の鍵は、思っていたよりずっと重い。その重さが、ちゃんとした場所を借りた証みたいで、胸の奥がじんとした。
「ありがとうございます」
小さく言うと、女性は肩をすくめる。
「何かあったら呼びな。ここは森じゃないんだ、無理しなくていい」
その言葉が、不意に深く刺さる。
私は鍵を握りしめたまま、軽く頭を下げた。
「……はい」
そしてミアと並んで、階段へ向かった。背中に感じていた視線は、もう好奇心だけのものだった。警戒でも敵意でもない。ただの“よそ者を見る目”。
それだけで、十分だった。
階段を上がるたび、板が小さく鳴る。その音にさえ、私はびくりとしなかった。森なら、足音一つで気配を探ったのに、ここでは誰も警戒していない。誰もこちらを狙っていない。その事実が、こんなにも体を軽くするなんて知らなかった。
廊下には、石鹸と乾いた布の匂いが混じっている。どこかの部屋から、かすかに話し声が聞こえた。低い男の声と、笑う女の人の声。怒号でも悲鳴でもない、ただの会話。
鍵を差し込むと、金属がこすれる音がして、かちりと回る。
その音が、妙に重かった。
扉を押し開ける。
窓から夕方の光が差し込んでいて、部屋の中はやわらかい色をしていた。床はきちんと掃かれているし、壁にひびもない。机が一つと、椅子が二つ。そして、整えられたベッド。
私は荷物をゆっくりと床に下ろした。肩が、じんと痺れている。気づかないふりをしていた疲れが、ここに来て一気に顔を出したみたいだった。
「……鍵、閉めるね」
ミアが振り返らずに言う。
「うん」
かちゃり、と鍵がしまった音を聞いて、ようやく心が落ち着いたような気がした。
私は窓辺に歩み寄って、外を覗く。広場では子どもが走り回っている。犬が吠え、それを誰かが笑いながら追いかける。煙が空に細く伸びていく。
ここでは、夜が来ても、誰かが見張りに立つわけじゃない。焚き火の火が消えないように気を配る必要もない。
ふと、自分の手を見る。小さな擦り傷がいくつもあって、爪の間にまだ土が残っている。それをここではちゃんと洗える。水があり、桶もあるからだ。
「……変な感じ」
思わず呟く。
「何が?」
ベッドの端に腰かけたミアがこちらを見る。
「なんだか静かすぎて落ち着かないというか…。怖くない静けさってこんなだったっけ」
「忘れてただけ」
その言い方が、少しだけ大人びて聞こえる。
私は靴を脱ぎ、足の裏が床に触れる。冷たすぎず、固すぎず、ちゃんとした板の感触。土でも草でもない。踏みしめると、かすかに乾いた音が返ってくる。
ぐうぅ〜
「………」
お腹が鳴った。
静かな部屋だからやけに響いた気がして、私は反射的に視線を逸らす。が、沈黙に耐えきれずミアの方をチラッと見ると、ミアの目がこちらに向いていた。
「……今の」
「違う」
「絶対鳴った」
「気のせい」
「いや、鳴った」
言い合いながら、私は自分のお腹を押さえる。森では、空腹なんて当たり前だった。干し肉を少しずつかじって、水でごまかして、足りなければ我慢する。それが普通だった。
でも今は違う。
下の階から漂ってくる匂いが、はっきりわかる。煮込みの匂い。焼けたパンの匂い。油の匂い。
「……ねえ」
私は体を起こして、ミアを見る。
「少し早いけどさ、夜ご飯、食べにいこ。せっかく宿なんだしさ、ちゃんとした料理出てくるんだよ? たぶん、温かいやつ。湯気出てるやつ」
自分でもわかるくらい、声が弾んでいる。
そんな私をミアはじっと見てから、ふっと小さく息を吐いた。
「レナ、さっきまで“静かすぎて落ち着かない”とか言ってたのに、切り替え早いね」
「お腹は別問題だよ」
「正直」
「生きるのに大事なやつだから」
少しの沈黙のあと、ミアは立ち上がる。
「……行こ。どうせ私もお腹空いてる」
「素直じゃないね?」
「うるさい。あと、食べ過ぎには気をつけて。食事は適量が大事。体重が増えると戦闘にも影響する」
「はいはい、わかりましたよ。ミア師匠様」
階段を下りると、広間はさっきより賑わっていた。皿の触れ合う音、酒の入った杯が置かれる音、誰かの笑い声。あちこちから湯気が立っている。
私たちは壁際の席に座る。背中が壁に触れるだけで、少し安心する。
運ばれてきたのは、野菜と肉の煮込み、それから焼きたてのパン。湯気が立ち上り、表面がつやつやしている。
スプーンを持つ手が、少し震える。
一口、口に入れる。
熱い。やわらかい。ちゃんと味がする。塩気だけじゃなくて、甘みも、香草の香りもある。
思わず目を閉じた。
「ん〜!!ねぇミア!これ美味しい!美味しすぎるよ!」
そう言いながら、私はミアの方を見ると、いつも通り静かに食べてい──いや、違う。
スプーンの動きがが速い。速すぎる。
もはや食事というより戦闘だ。
一口ごとの間隔がほとんどない。皿から口へ、皿から口へ。まるで補給を急ぐ兵士みたいな勢いで料理が消えていく。
噛んでいるのかも怪しい。いや、噛んではいるのだろうけど、早送りみたいだ。
「……ミア?」
呼びかけても、返事がない。
違う。返事をしないんじゃない、出来ないんだ。
今しゃべったら、口に入ってるものがあふれるから。
視線は終始、皿に固定。こちらを見る余裕はゼロ。
いつもはもう少し優雅というか、少なくとも“食事”はしていたはずだ。
今のそれは、もう摂取。
皿の上の料理が、目に見えて減っていく。
さっき山盛りだったはずなのに、もう半分ない。
誰かに取られるとでも思っているかのような、あまりに異常な速度だ。
私はしばらくその様子を眺めてから、小さくため息をついた。
「そんなに急がなくても、誰も奪わないよ」
その瞬間、箸がぴたりと止まった。
「ゆっくり食べなよ」
「…レナこそ、もう三口目」
「なんで数えてるの!?あと三口目はペース的に普通だと思うよ!?」
そんな言い合いをしながら、パンをちぎって、スープに浸し、口に運ぶ。温かいものが喉を通るたび、体の奥にじんわりと広がる。冷えていた部分が、内側から溶けていくみたいだった。
食べ終わるころには、体も心も、ふわりと軽くなっていた。
「うぅ、食べ過ぎた…苦しい…」
「………」
…ミアの胃袋は重くなっていた。
そんなこんなで部屋に戻るころには、外はすっかり暗くなっていた。窓の外では灯りがゆらゆら揺れている。しっとりした夜の空気──とは裏腹に、私はベッドに勢いよくダイブした。
「はぁぁぁぁ……生きててよかったぁ……美味しかったぁ……」
ふと、横に視線を向けるとミアが立っていた。
いや、正確には椅子に座っている。だが、存在感が立っている。
腕を組み、背筋はぴんと伸び、いつも通りクールな顔。
ただし。
お腹が、ぽこん。
さっきまでの高速補給の結果が、はっきりとそこに出ていた。
「……」
「……」
目が合うが、ミアは何事もない顔で腕を組み直す。
その瞬間、ぎゅるぅぅぅ……と、非常に正直な消化の音が部屋に響いた。その光景があまりにシュールすぎて、耐えきれず吹き出してしまう。
「あははは!ぎゅるぅって!あはは!戦闘後の魔力暴走ですか!?」
「違う」
即答だった。
「腹圧の問題だ」
「冷静に言うな!てかさっき“食事は適量が大事だ”って言ってなかったっけ!?」
「状況が違う」
「いや何が!?」
ミアは静かに立ち上がろうとし──
ベルトが、ギチギチと鳴いた。
「……仕方ないから、少し休む」
そう言って、ミアは極めて威厳のある動作で、そっと座り直した。
獣人としての威厳だけは守った。
女の子としての尊厳は守れなかった。




