20話 遅すぎた帰還
「父さん!!」
倒れている仲間たちの匂いを踏み越えながら、ミアは父のもとへ駆けようとする。
血と焦げた木の臭いが鼻を刺し、肺の奥まで重く沈む。視界の先で、族長である父が地に膝をついたまま腕を動かしているのが見えた。動けないはずの身体を、無理やり動かしているのだとすぐに分かる。血を流しながら、それでも前に立ち続けている。その手は、必死にこちらへと向けられていた。
「……来るな……逃げろ…ミア……」
──仲間が全員やられても何時間も、何度も男の攻撃を耐えてきた理由。それは、父として帰ってくるであろう娘に「逃げろ」と伝えるため、状況を知らずに帰ってくる娘を逃がすためだった。普通なら死んでいる。それをひたすら気合いで耐えてきた。帰ってこないならそれが一番だったが…
「大丈夫。絶対に助ける。父さんは私が守る」
しかし、既に満身創痍で死にかけている父を前に、逃げるという選択肢があるはずも無かった。
その2人の間に無情にも男が立ちはだかる。
「まだ生き残りがいたんだねぇ!…あれぇ?」
観察するような目で、駆けてくるミアの顔をジッとみて、そしてハッとした表情に変わる。
「ねぇ、君さ、森にいたよね?昼間、妙な動きをしてた子だ」
ミアの動きが止まる。
「境界を越えて、人間と一緒に戦ってた。見てたよ。あれ、なかなか面白かった。特に、人間のガキを狙ったと見せ掛けて、君を狙ったあの攻撃を避けた時は驚いたよ!あれ、なんでわかったの?初見じゃ気づけないはずなのにさぁ。いやぁ、にしても雑魚魔獣とはいえ、よく勝てたよねぇ。君たちじゃ勝てないと思ってたんだけど」
「……お前がやったのか、あの魔獣のせいで、私もレナも帰るのが遅れたんだ。だからみんな…」
男は肩をすくめる。
「いやぁ、ほんと迷惑だったんだよ。君達が殺した魔獣はこの里に向かわせるつもりだったのにさぁ?君たちが余計なことするから、僕が直接ここまで来なきゃいけなくなった。手間が増えた。分かる?僕、今日は別の実験の予定だったんだよ?」
一歩、ミアに近づく。
「それにさぁ、帰るのが遅れたのは君たちが弱いからでしょ?家畜のくせにさぁ、境界を越えて、人間と協力してさぁ?ルール違反じゃない?挙句の果てには人のせいとか…、自分たちの立場、分かってる?」
ミアは爪を出し、地面を蹴る。
一瞬で距離を詰め、男の喉元を狙う。
だが男は、ほんのわずかに身体を傾けただけで避けた。ミアの腕を掴み、勢いを殺すことなく振り回すように地面に叩きつける。
「ぐぁっ!?」
勢いが強すぎて、ミアの身体がボールのように跳ねる。中に浮いた身体を、男は容赦なく横から蹴りとばす。
「がはっ!」
「ミアっ!!」
地面を転がり、その先にあった家屋にぶつかる。それでも勢いは止まらず、壁を突き破り、ようやくそこで止まった。
男は笑いながら
「人が話しかけてるのに、フル無視して攻撃してくるなんて、そんなに自分の強さに自信があるのかい?相手との力量を測れないなんて、やっぱり家畜には知性が足りないねぇ」
一瞬でボロボロになった身体をどうにか起こし、ゆっくりと立ち上がる。
顔を上げた先には父の前に立つ男の姿が映る。
「や……めろ…父さんに…触るな…。お前の…相手は…私だ、こっちを見ろ…」
喉の奥で血の味が広がる。息を吸うたびに胸が焼ける。それでもミアは、途切れそうになる意識を繋ぎ止めながら言葉を押し出す。
男はゆっくりと振り返る。
その目は冷たく、どこか楽しんでいる色を帯びている。
「まだ生きてたんだ。家畜はやっぱりしぶといね」
未だ立ち上がれないミアに一歩、二歩と近づきながら、わざとらしく首を傾げる。
「ねぇ、君さぁ、森で魔獣を倒して強くなった気になってた? 自分なら守れるって本気で思ってたの?滑稽だよ。力を手に入れた気分になって、境界まで越えて、人間と手を組んで……次は英雄気取りかい?」
「違う…そんなん…じゃ、うぐっ!」
男はしゃがみ込み、血に濡れたミアの顎を掴んで無理やり顔を上げさせる。
「守る? 助ける? 君にそんな力があると、誰が言った?」
唇が歪む。
「見てよ。ふふっ、現実はこれだ」
「やめろ…ミアから手を、離せ…」
「だから試してみたくなったんだ。君の目の前で父親をぐちゃぐちゃに殺したらどうなるのか。ちょっとした実験だよ。ねぇ、君は叫ぶ? 泣き崩れる? それとも壊れる?」
男は楽しげに目を細める。
「どんな顔をするのか見てみたい。君の、その諦めてない目が絶望に染まる瞬間。くくっ、あぁ…気になるなぁ。っと、その前に」
顎から手を離し、次は右手でミアの細い足を掴み持ち上げた。そして、ゆっくりと右手に力を入れ始める。
「やめ…うっ、あぁ、やめて、」
逃れようとするが、がっしりと掴まれており動けない。
「やめろ…やめてくれ…」
父の声は届かない。
締め上げる力がだんだん強くなり骨を押し潰していく。じり、と耐えていた感覚が悲鳴をあげ、
ぱきり、と小さな音が世界を裂いた。
「あああぁあぁ!!」
あまりの痛みに絶叫する。折られたのではない。砕かれたのだ。砕けた骨が肉に刺さりより痛みを助長している。
「ただ足を砕いただけじゃないか。嫌になっちゃうなぁ。家畜とはいえ、少女に叫ばれるとまるで僕が悪いことをしている気になるじゃないか。いや?うーん。ならないか、ならないな。うん」
男は手を離し、掴んでいた手の汚れを落とすようにパンパンとしながら父の方へと歩き出す。
「まぁそこで見ててよ。焦らないで大丈夫。一瞬では終わらせないからさぁ」
目の前に立つ男を前に、父は立ち上がろうとするが、腕は震え、脚は崩れ、血に濡れた地面に膝をついたままだ。
男はそんな父の顔を覗き込むようにしゃがみ、くすりと笑った。
「片目を潰されても、娘を半殺しにされても、自分が今から死ぬと分かってもまだ、そういう目ができるんだねぇ」
父は歯を食いしばり、最後の力で男の胸ぐらを掴もうとする。
だが、届かない。
男の手が、無造作に父の首元を掴み上げる。
「がっ……!」
足が地面から浮く。
喉が締め上げられ、空気が奪われる。
拳が男の腕を叩くが、びくともしない。
「父さんっ!!」
ミアの叫びが夜を裂く。
男はその声を楽しむように、わざとゆっくりと締め付ける力を強めていく。
「君さぁ、娘の前で死ぬの、どんな気分?」
父の顔が赤黒く変わっていく。
血管が浮き上がり、呼吸は途切れ途切れになる。
それでも──
父の視線は、男ではなく、ミアを見ていた。
“逃げて生きてくれ”と。
言葉にならない願いが、その目に宿っている。
「ちっ、最後まで娘のことか。つまらないなぁ」
次の瞬間、男の拳が父の腹を深く打ち抜く。
「っぁ…」
息が一気に吐き出される。
声にならない呻き。
もう一度。
そして、もう一度。
骨の軋む音が、静かな里に響く。
ミアは這いずりながら叫ぶ。
「やめて……お願い……やめて……!」
男は振り向き、楽しそうに笑う。
「あぁっ!ほら、それだよ!いい顔してる。
そうそうそうそう!その顔が見たかったんだ!」
そして再び父へ向き直り、掴み上げた身体を無造作に地面へ叩きつける。その衝撃で土埃が舞った。
男は倒れている父を見て、「あ!いいこと思いついた」といい、笑顔のまま右足を踏み砕いた。
「っ、ぐあああぁぁ!」
「ほぉら、大好きな娘とお揃いだよぉ?」
「もう…やめて…父さんが…」
「そうだね、飽きてきたしそろそろ終わらせようか。ねぇ、最後に言い残すことは?」
「だめ…やめ…て……」
父と視線が合う。
「…い…き……て…し…あ……わ───」
「……実験終了」
潰された。頭が。最期の言葉を言い切る前に。
「……父、さん……?」
喉の奥からかすれた声が出る。現実感がない。目の前の光景が、うまく理解できない。
男は靴先についた血を気にするように、軽く舌打ちした。
「あぁ、靴が……もう。獣臭くなったらどうするんだよ」
倒れた父の体に靴を擦りつけ、汚れを落とすように何度か動かす。その仕草は雑で、無造作だった。そして、ゆっくりと顔を上げる。
視線が合ったその目は、温度のない目だった。
「さぁ、次は君の番だ」
心臓が強く打つ。
足が動かない。
男が一歩、こちらへ踏み出す。
砂を踏む音がやけに大きい。
もう一歩。
距離が縮まる。
呼吸が浅くなり、背中に冷たい汗が流れる。
「うん? さっきまでの威勢はどうした?」
男の声は穏やかで、だからこそ異様だった。
指先が震える。
父が目の前で殺された。その仇が目の前にいるのに力が入らない。殺らなければいけないと思っているのに。
いますぐこいつを殺したくて、殺したくて、ぐちゃぐちゃにしてやりたいのに。
なんで体は、指は、思考は動いてくれないの。
「何を呆けているんだい?全くこれだから──」「いつまでやってるの?」
男の声に重なるように、少女の声が響く。
「もう目的は果たしてるでしょ。ねぇ、いつまでやってるの?」
声の方を見ると、そこには顔を面で隠している黒い髪をした少女が立っていた。
「さっさと引き上げるよ。」
男は眉をひそめる。
「えぇ!? ここまで重労働させといて、僕からメインディッシュを奪うのかい!?これからがいいところなのに!酷い!あまりに残酷じゃないか!」
少女は周りの惨状を見渡し、ため息をつく。
「…はぁ。それをお前が…まぁ、続けたいなら好きにしたら? 遅れてお前が消されても、私には関係ないし」
男の顔がわずかに強張る。
「っ!?僕を脅すのかい!? …まったくこれだからリ…おっと。外での名前の呼び合いはご法度だったね。危ない危ない。にしても、上は融通がきかないなぁ」
男はミアを見下ろす。
「まぁ、そういうことだからさぁ。申し訳ないけど、また今度遊ぼうねぇ。ミアちゃん」
満面の笑みで軽く手を振る男に、女はため息をつく。
そして次の瞬間、二人の姿は闇に飲まれるようにして掻き消えた。
「…は?」
意味もわからず、ただただ蹂躙されただけの
夜の里に残るのは、壊れた家々と、殺された仲間達と族長、そして血に濡れたまま動けないミアだけだった。
戦いは、あまりにも呆気なく終わった。
静寂が落ちる。
耳鳴りだけが残る中、ミアはようやく終わったのだと理解した。
その瞬間、張り詰めていた糸が切れる。
力が抜け、視界が暗く沈み、少女の意識はそこで途切れた。




