19話 家畜
今回は少し長めです。
私には、妻と2人の子供がいた。
妻は優しい人だった。声は穏やかで、誰に対しても分け隔てなく接した。里の者たちは皆、彼女を慕っていた。私が言葉足らずで誤解を生みそうになれば、横でさりげなく補い、荒れかけた空気を柔らかく整え、不器用な私に代わり彼女は人と人の間を繋ぐ役目を自然に果たしてくれた。
2人目を産んだあと、彼女は亡くなった。
娘の産声と引き換えだった。
私は泣く暇もなく、ただ残された子供たちを守らなければならなかった。
長男は、優しくて、いつも明るい子だった。
妹の手を引いて森の外れまで散歩に行くのが好きで、小さな背中で前を歩きながら、何度も振り返っては「大丈夫か?」と笑っていた。
まだ子どもなのに、「俺が守るんだ」と言い張る。
背伸びをして、強くあろうとする姿が、どこか可笑しくて、どこまでも愛しかった。
妻が亡くなって6年後。
ようやく10歳になったばかりだった息子は、突然この世を去った。
まだ幼い妹を庇って。
森で群れの狼が暴れたあの日、あの子は逃げなかった。6歳の妹を背にかばい、自分から狼の前に立った。震えていたはずなのに、一歩も退かず、妹が逃げる時間を作るために自分を盾にしたのだ。
私が駆けつけた時には、もう遅かった。
あと少し早ければと、何度も何度も悔やんだ。
それでも、最後に見たあの小さな背中を、私は誇りに思っている。
恐怖よりも、守ることを選んだ背中を私は一生、忘れない。
娘もまた、明るい子だった。
きっと兄に似たのだろう。
兄の後ろをちょこちょこと追いかけ、転んでは泥だらけになり、それでもすぐに立ち上がって笑っていた。よく走り、よくはしゃぎ、その笑顔は見ているこちらまでつられて笑ってしまうほどで、
──まるで小さな太陽のような子だった。
妻を失った私も、母を失った息子も、あの小さな太陽に照らされていたからだろうか。私たち家族はあの子のおかげで前に進めていたのだと思う。
だが、兄が亡くなってから、その太陽は静かにかげりをみせた。
笑うことが減った。
感情を強く出さなくなった。
泣くときでさえ、声を押し殺すようになった。
幼いはずなのに、何かを堪えるように。
守られる側だったはずのあの子が、いつの間にか、何も言わずに耐えることを覚えてしまった。
そんなあの子に、私は父としてどう接すればいいのか分からなかった。
抱きしめるべきだったのか。
泣いていいと言うべきだったのか。
だが結局、私はうまくできなかった。
父としてではなく、族長として言葉をかけることしかできなかった。
「危険な場所へは行くな」
「巡回は二人以上で行け」
「境界線を越えるな」
命令のような言葉ばかりが増えた。
本当は違うことを伝えたかったのに。いざ娘を前にすると、言葉が詰まる。
それは、息子が亡くなってから8年経った今でも変わらなかった。後悔ばかりが積み重なっていった。
だがせめて、父として残された娘だけは、何があっても守りたいと心から思っている。
それに、本人には伝えていないが、あの子には獣人族の中でも極めて珍しい力がある。
神獣化──獣の血がとても濃くなければ宿らない、本来の姿を大きく超える変化の力。
その事がわかったのは、あの子がまだ3歳のとき。大人でも2人がかりでやっと運ぶ丸太をあの子は1人で持ち上げた。
私は大いに驚いた。
明らかに普通じゃない。娘はまだ3歳だ。
周りの連中は「おぉ!すごい力だな!」「さすがは族長の娘だ!」とただ褒めていたが、私は“ただの力持ち”とは思えなかった。
そして、私にはひとつ、この状況に心当たりがあった。昔、私の祖父から「ごく稀に獣人族の中に神獣化の力を持つ者が生まれる」と聞いたことがあったからだ。獣神様の祝福や先祖返りなど色々説があるらしいが、とにかくすごい力だそうだ。
私がそのことを教えていない理由は、身体と精神が十分に成長していなければ制御できないと考えたからだ。だから15の歳になるまでは教えないと決めていた。
焦らせたくなかったし、それに何より、危険に巻き込みたくなかったからだ。
…それにしても、今日はやけに森が騒がしい。
風の流れが落ち着かない。鳥たちが無意味に飛び立ち、獣の気配も一定ではない。
長く森と共に生きてきた勘が、はっきりと告げていた。
嫌な気配がする。
それに、朝の巡回に出た娘がまだ戻らない。
少し遅くなることはあっても、朝の巡回に出て昼過ぎまで帰ってこないことは今まで無かった。
──何かあったのだろうか。
私は仲間たちを集めた。
状況を伝え、森へ出る準備を整えさせる。武器を手に取る手が、いつもよりわずかに重い。
里の入口へ向かう途中に、そいつは現れた。
視線の先──。
一見、優しげな雰囲気を持つ一人の男が、カーキ色の髪をかきあげながら、何の躊躇もなく堂々と里へ足を踏み入れてきた。
迷いも警戒もない足取り。
まるで、ここが自分の庭であるかのように。
人間だった。
「ヒューマン!? 貴様、境界線を越えてきたのか!」
「暗黙のルールを破るとは何事か!」
「ここがどこだか分かっているのか!」
仲間たちが怒声を上げ、武器を構える。
ゆっくりとこちらを見回し、男は立ち止まった。辺りを見回し、ゆっくりと笑った。
そして鼻をつまんで顔の前でパタパタと手を振り、わざとらしく顔をしかめる。
「あぁ、うるさいな。家畜共はこれだから嫌なんだ。それに……臭くてたまらない」
「…は?家畜…?」
空気が凍る。
「きっ、貴様ァァ!!」
次の瞬間、誰かが斬りかかった。
だが男はニヤけたまま一歩も動かない。
「まっ、待て!」
私は急いで声を上げた。境界線を越え、勝手に入ってきたとはいえ、獣人族が村人を殺したとなれば種族間の問題になる。
しかし、既に振るわれた刃は止まらない。その刃が男の首に触れる瞬間───
仲間の腕が吹き飛んだ。
「っ!?うああぁぁぁ!?腕がぁ!!」
「おい!全員下がれ!」
こいつは普通じゃない。危険だと判断して私は叫んだ…が、遅かった。
男は歩き始めていた。まるで散歩でもしているかのようにゆっくりと。そして男が手を軽く振るたびに、ビュン、という音と共に仲間が倒れていく。肉の裂ける音。骨の折れる音。地面に叩きつけられる音。血の匂いが一気に広がる。
男はその細身の身体からは想像できないほどに圧倒的な力だった。いや圧倒的という言葉すら生ぬるい。次元が違う。なにしろ、何も見えないのだ。この男はただ立っているだけにしか見えない。それなのに──
「っぐは!?」
他の仲間が斬りかかるが近づく前に弾き飛ばされていく。
「なんなんだ…。こいつは…」
──地獄の始まりだった。
それから、どれだけ時間が経ったのか分からない。既に太陽は沈み、辺りは暗くなっていた。
壊れた家屋の間、広場、門の前、至る所に仲間たちが横たわっている。
血の匂いが濃く、土は黒く濡れている。静まり返ったその中心で、ひとりの男が退屈そうに肩を回しながら近づいてくる。
「はぁ…。命令とはいえ、なんでこの僕がこんなことしなくちゃならないんだよ」
軽い声だった。心底うんざりしたように肩をすくめる。その男と視線が合い、男はニヤリと口元を歪める。
「ほんと嫌になるねぇ。家畜風情が、こんなに手こずらせやがって」
そう言いながら、蹴ってくる。
鈍い音が響き、身体が転がって少し男から距離が離れてもなお、近づいては蹴り、近づいては蹴り、何度も何度も蹴ってくる。
「臭いし、弱いし、そのくせに無駄に生命力だけはある。潰しても潰しても、まだ動く。
お前らさぁ、獣人族じゃなくてゴキブリ族とかに名前変えたらどうなんだ?」
また蹴る。今度は肩。骨がきしむ音がする。
どうにか声を押し殺す。歯を食いしばり、血を吐きながらも、目だけは逸らさない。
里を守れなかった。
仲間たちは、もう動かない。
昼過ぎに突然1人で現れたこの男を、最初はただの侵入者だと思った。
だが違った。圧倒的だった。50人で囲み、武器を向け、連携しても、止められなかった。ひとり、またひとりと倒され、最後に立っていたのは自分だけだった。
「だいたい、50人で1人を囲むなんて卑怯だと思わないのか?あぁ、ははっ、さてはあれか?雑魚だから集まらないと倒せない。だから仕方ありません。ってか?なぁ?」
──何がそんなにおかしくて笑ってるんだ。卑怯だというが、お前は現れてから今に至るまで、一歩も退くことは無かったじゃないか。
「なぁ、おい。聞いてるのか?」
しゃがみ込み、顔を覗き込んでくる。
「お前、ここの長なんだろ?」
足先で私の顎を持ち上げ、無理やり視線を合わせる。
「う、うぅ……」
「さっさと死ねばいいのにさ。無駄に足掻くから時間がかかるんだよ。どうせ結末は同じなのに」
再び蹴りが落ちる。
まだ死ぬ訳にはいかない。
私は歯を食いしばる。
「ほら、なにか言えよ。僕1人にだけ話させるって長としてどうなのさ?客人みたいなもんでしょ?おもてなしの心とか無いのか?」
男は私の胸を踏みつけ、そのまま顔へと足を移す。
「なぁ、さっきからその目はなんだよ?悪者を見るような目で見てきてさぁ。まさか、本当に僕が悪いと思ってるの?いやいや、仕方ないじゃないか。計画が変わったんだよ。僕はそれに従ってるだけなんだしさぁ?
……なぁ、だからいい加減、その目やめてくんないかな」
次の瞬間、男は族長の顔に足を乗せた。踵がゆっくりと下がる。
「ぐああぁ!!」
里に、叫び声が響いた。
踵が目に食い込む。鈍い感触。視界が赤く弾け、片目が潰れる。族長の叫びは、やがて掠れた呻きに変わる。
「はぁ……ほんとにさぁ…」
男は足を離し、退屈そうに息を吐く。
「うるさいんだよ。所詮、実験体の家畜共が」
そのときだった。
里の入口の方から、枝を踏み折る音が響く。乾いた音が夜の静けさを破る。誰かが、こちらへ向かって駆けてくる足音。
その足運びを、私は知っている。
胸が強く脈打つ。
──まさか。
だめだ、来るな。
頼む、来ないでくれ。
声にならない叫びが喉で止まる。潰れた片目からは何も見えない。残った視界も血で滲んでいる。それでも、必死に入口の方へ顔を向ける。
「父さん!!」
夜の里に、はっきりと響く声。
聞き慣れた声だった。
何度も呼ばれてきた呼び方。幼い頃から変わらない、その声。
視界の半分が暗いまま、私はその姿を探す。倒れた仲間たちの向こう、壊れた住居の間、入口から駆け込んでくる影。
来てしまった。
守りたかったものが、目の前に来てしまった。
男がゆっくりと振り返る。
首を傾け、まるで新しい玩具を見つけたかのように。
その笑みは、まだ消えていなかった。




