18話 夜明けはまだ
崩れた家の中で、私は母のそばに膝をついたまま、動けずにいた。さっきまであれほど叫んでいたはずなのに、もう声が出ない。喉は焼けるようにひりつき、息を吸うたびに胸の奥がひきつる。泣いているのかどうかも分からない。ただ、身体のどこかが震えているのだけは分かった。
母の手は、まだ温もりが残っている気がして、私はそれを両手で包み込んだ。指先に力を込めれば、いつものように握り返してくれるかもしれない。朝になれば「何を泣いているの」と困った顔で笑ってくれるかもしれない。そんな考えが、馬鹿みたいに頭の中を巡る。でも、どれだけ待っても、その氷のように冷たい手は動かなかった。
少し離れた場所に父が倒れているのが視界の端に見える。廊下の壁にもたれ掛かるように倒れたまま、微動だにしない。立ち上がって駆け寄ればいいのに、膝が床に縫い止められたみたいに動かなかった。
分かっている。二人とも、もう動かない。
でも、その事実は言葉にならないまま、ゆっくりと、冷たい水のように身体の奥へ染み込んでいく。否定もできず、受け止めることもできず、ただ沈んでいく。
やがて、瓦礫を踏む足音が近づいた。乾いた音が、やけに大きく響く。
「……レナ」
低く抑えた声。振り返らなくても分かる。バイルだ。いつものぶっきらぼうな響きはなく、壊れ物に触れるみたいな声だった。
それでも私は振り向けない。振り向けば、この光景に名前が与えられてしまう気がした。慰めの言葉が落ちてきた瞬間、終わりが確定してしまう気がして、怖かった。だから私は母の手を握ったまま、ただ俯き、息を殺すようにしてそこにいた。
続いてミアも中へ入ってくる。ミアの水色の瞳が、まず父を捉え、次に母へと移り、その目がほんのわずかに細まる。感情を押し殺すような静かな動きだった。短い沈黙のあと、彼女は小さく息を吐いた。
「……そうか」
たった一言。その重さに、私の肩がびくりと震えた。
それは判決みたいだった。
終わりを告げる音みたいだった。
「……間に合ったはずだったの」
気づけば、言葉がこぼれていた。誰に向けたのかも分からない。ただ、黙っていると胸の奥が潰れてしまいそうで、何かを吐き出さずにはいられなかった。
「魔獣は倒した。ちゃんと倒した。だから……間に合ったはずなの。はずだったのに」
声が震える。理屈が通っていないことくらい分かっている。森の奥で戦っている間にここが襲われたことも、時間が巻き戻らないことも…分かっている。
それでも。
“倒した”という事実が、無意味になるのが怖かった。
私達の選択が、遅れが、何かを間違えたせいでこうなったのだと、誰かに言われるのが怖かった。
「俺たちが森に注意を引きつけすぎたせいかもしれない。浅層が手薄になった」
バイルの低い声が、現実を組み立てていく。原因と結果。可能性と責任。崩れた家の中に、冷たい理屈が置かれていく。
けれどそれを、ミアがはっきりと遮った。
「違う。戻った時、残り香が多すぎた。一体ではない。匂いの濃さと位置からして、動きは統率されていた可能性が高い」
統率。
その言葉に、バイルが息を呑む気配がした。
「統率、だと……」
会話が続く。状況が整理されていく。
複数。統率。意図。計画。
言葉が、上を通り過ぎていく。
でも、私の中には入ってこない。
分析よりも、推測よりも、原因よりも。
母の手の冷たさのほうが、ずっと重い。
父の動かない背中のほうが、ずっと現実だった。
喉の奥がひきつれて、言葉が途切れる。生きろ、と言われたときの父の声が耳にこびりついて離れない。
背後で衣擦れの音がして、ミアがそっと斜め後ろに座る気配がした。すぐ隣ではなく、少しだけ距離を空けて。その慎重さが逆に優しかった。やがて、肩にそっと手を置かれて、
「今は何も考えなくていい。泣けるなら、泣け」
抑え込んでいたものが、その一言で崩れた。
私は母の手を握る。冷たい。さっきまで、まだ温もりがあると信じ込もうとしていた。でももう、誤魔化せない。指先に伝わるのは、確かな冷たさだった。
「やだ……やだよ……」
幼い声が、自分の喉からこぼれる。みっともないと思う余裕すらない。涙があふれて、視界が歪み、呼吸がうまくできない。止められない。止めようとしても、胸の奥から次々と湧き上がってくる。
どれくらい泣いたのか分からない。
やがて呼吸が少しだけ落ち着き、涙も細くなったころ、私はかすれた声で問う。
「……何が起きたの」
自分でも驚くほど、平坦な声だった。知りたいわけじゃない。ただ、何かを聞いていないと、沈黙に押し潰されそうだった。
「分からない。ただ、この魔獣騒ぎは自然じゃない」
ミアの声は静かだが、硬い。森で見た異様な光景が一瞬よぎる。が、思考することができない。いや、したくなかった。考え始めれば、母の顔が、父の背中が、遠ざかってしまいそうで怖かったから。
「……もう少し、ここにいていい?」
子どもみたいな願いだった。ここにいれば、まだ何かが続いているような、終わっていないような、そんな錯覚に縋っていられるから。
「ああ、もちろんだ」
短い返事。余計な慰めはない。それが、ありがたかった。
「私たちは外を見てくる」
二人の足音が、瓦礫を踏みしめながら遠ざかっていく。気を遣ってくれたのだと分かる。今の私に必要なのは説明でも結論でもなく、ただこの時間なのだと、分かってくれている。
やがて、家の中は静まり返った。
崩れた柱の隙間から差し込む光が、埃を照らしている。小さな粒がゆっくりと落ちていく。その遅さだけが、やけに鮮明だった。
──生きろ。
ふと、父の最期の言葉が頭に浮かんだ。でも、今の自分がどう受け止めればいいのか分からず、その言葉だけがここに残されたみたいだった。
けど、どうやって。
何のために。
守られる側だった私が、急に一人で立てと言われても、足の動かし方すら分からない。胸の奥は空洞みたいで、何を入れても響かない気がする。
時間だけが過ぎていく。
私は立ち上がれないまま、ただそこに座り続けた。母の手を握り、父の背中を視界に入れたまま、終わったはずの家の中で、終わりを受け入れきれずに。
涙の乾いた頬に、冷たい空気がそっと触れる。
それでも私は、まだ動けなかった。
気づけば、空は暗くなり始めていた。
どれくらい時間が経ったのか分からない。泣き疲れ、私はようやく母の手を離した。父の亡骸と母の亡骸は家の外へ運ばれている。誰がどう動いたのか、はっきりとは覚えていない。
ただ、ミアとバイルが指示を出し、生き残った村人たちが運び出してくれた。
両親が運び出されて少し経ってからフラフラと外に出てみると、壊れた家々のあいだで生き残った村人たちが動いていた。泣き崩れている者も、呆然と立ち尽くす者もいる。
焚き火が灯り、白い煙が夜へ静かに昇っていく。その匂いに混じって、血と焦げた木の匂いがまだ消えない。
森からは三体、いや四体はいたという証言。
統率された動き。柵を破り、散開して襲撃した形跡。
誰かの声が、遠くで続ける。
魔獣たちは破壊の限りを尽くし、三割は家ごと、二割は戦って、四割は逃げようとして殺された、と。
九割を殺したあと、森へ戻っていったらしい。
まるで、何かに命じられたかのように。
……九割。
数字だけが、頭の中で浮く。
でも実感はない。だって、その“九割”の中に、私の両親がいる。
「バイル…ミアはどこ?」
「里が心配だと言って、夕方に帰ったよ」
「帰った……」
一瞬、止めなかったのかと思う。けれどすぐに、その考えを打ち消す。止められるはずがない。ミアにも守るべき場所がある。
「すぐ戻ると言ってた」
「………そっか。分かった」
「それと、ミアが『お前の両親は、消えない。だから生きろ』と伝えてくれと」
「消えないって…」
消えない?
認めたくないけれど、二人はもう動かない。呼吸もしない。名前を呼んでも返事はない。命は、消えたはずだ。
消えてしまったじゃないか。
そう言い返しそうになったとき、包帯を巻いた青年が近づいてきた。腕を吊り、顔には煤がついている。
「レナ……お前、大丈夫か」
「……大丈夫」
即座に出たその言葉は、空っぽだった。
嘘だと、自分でも分かっている。
でも、この青年も、隣で泣いている子どもも、遠くで黙って空を見上げている老人も、何かを失っている。私だけじゃない。
だから“違う”とは言えなかった。
“私のほうが辛い”とも言えなかった。
青年はそれ以上何も言わず、そっと隣に座る。ただ同じ火を見つめる。それだけで、少しだけ呼吸が楽になる。
「森で何があった?」
年配の男の問いに、バイルが答える。
「浅層に出る直前で一体仕留めた。だが、あれだけじゃなかったらしい」
「森が荒れてた。あんな動きは初めてだ」
「偶然か?」
「分からん……」
言葉が重なる。
“おかしい”という感覚だけが、焚き火の煙みたいに広がっていく。
私はその輪の少し外で、揺れる火を見つめる。炎は形を変えながら、絶えず揺れている。消えそうで、消えない。
これからどうするべきか、まだ分からない。まだ何も形にならない。ただ、胸の奥に沈んだ喪失感だけが重い。
「お母さん……お父さん……」
小さく呟くと、夜の闇がそれを吸い込んだ。
返事はない。
ただ、火がぱちりと音を立てた。
◇
──その頃
ミアは森を駆けていた。
枝を踏み、幹を蹴り、月光を裂くようなその進みに迷いはない。夜目の利く瞳が、障害物も傾斜も正確に捉える。肺に入る空気は冷たいが、その奥に混じる匂いが思考を離さない。
血。焦げ。魔力の残滓。
浅層での異常。
複数の魔獣。
統率された動き。
偶然ではない。
そして──自分が境界線を越えたこと。
本来なら許されない。人間の村へ深く関わり、共に戦い、里を離れた。族の掟を破ったわけではないが、越えてはならない一線に踏み込んだのは事実だ。
それでも後悔はない。
あの場にいなければ、もっと多くが死んでいた。
だが報告は必要だ。
族長である父に、見たままを伝えなければならない。森の異変は、里にも及ぶ可能性がある。
枝を強く蹴り、さらに加速する。
月光が森を青く染め、影が鋭く伸びる。
やがて、里の気配が近づいた。
嗅ぎ慣れた匂いのはずだった。
火と土と、仲間たちの生活の匂い。獣皮と煮炊きの煙。血ではない、生きた匂い。
だが──
足が止まる。
違う。
風に乗る匂いが、違う。
鼻腔を刺すのは、焦げた木。
そして、濃すぎる血の匂い。
静かすぎる。
本来なら夜でも、見張りの足音や低い話し声がある。火のはぜる音がある。だが、何もない。
「灯りが、ついてない……?」
自分の声が、やけに遠く聞こえた。
──おかしい。
確認しなくちゃいけないのに、進みたくない。
意志とは裏腹にゆっくり1歩、1歩と里の入口に近づく。
「……え」
声が漏れた。
そこに広がっていたのは、壊れた住居と、倒れた仲間たちの姿だった。見慣れた衣。見慣れた顔。動かない身体。飛び散った血。
レナの家と、同じ光景…いや、それよりも酷い。
「なに…が…」
夜の森は、何も答えない。
ただ、吹き抜けた風が血の匂いを静かに揺らした。




