17話 守れなかったもの
連投です。
煙が目に染み、焦げた匂いが喉に絡みつく。崩れた通りの先、倒れた柵の向こうに人影が横たわっているのが見えた。見覚えのある服、見覚えのある髪──
けれど、誰ひとり動かない。あまりにも静かで、その沈黙が耳鳴りのように頭を締めつける。
「お母さんっ!!」
気づけば叫びながら走っていた。崩れた家並みのあいだを縫うように駆け抜ける。足元の瓦礫に何度もつまずきそうになり、そのたびに体勢を立て直すが、止まるという選択肢だけは最初からなかった。
まだ間に合う。きっと怪我をしているだけだ。煙は立ちのぼっているが、炎はもう見えない。だったら助けられるはずだと、必死に自分へ言い聞かせながら、レナは視線を上げる。
見慣れたはずの家が、そこにあった。
いや──家だったものが。
壁は崩れ、柱は折れ、屋根は斜めに沈み込んでいる。何度も出入りした玄関は形を失い、無理やりこじ開けられたように口を開けていた。
足が止まりかける。それでも、止まれない。
崩れかけた玄関をくぐり、瓦礫を踏み越えて中へ入る。家の中も無事ではなかった。壁は裂け、天井は崩れ落ち、家具は原形をとどめていない。そして、母が寝ていた部屋のあたりだけが、大きく抉り取られたように破壊されている。
その部屋の前に、人影が倒れているのが見えた。
「……っ」
父だった。
腹部から血が広がっている。濃く、暗い色が床板の隙間へと染み込み、ゆっくりと広がっていく。その量に、現実感が追いつかない。
「お父さん!」
叫びながら駆け寄り、膝をつく。震える手で肩を抱き起こすと、ぐらりと重みがかかる。温かい。まだ温かい。
生きている。
そう思った瞬間、胸の奥に小さな希望が灯る。
「しっかりして……!ねぇお父さん、」
声が震えて、うまく続かない。血で滑る手を必死に押さえながら、傷口を塞ごうとするが、止まらない。指の隙間から温もりが溢れ、現実を突きつけてくる。
「大丈夫だよね? すぐ手当てするから。バイルがいる、ミアもいる、薬草だって——」
言葉が早口になる。自分の声が遠く感じる。その時、父のまぶたがわずかに動いた。
「……レナ、か……」
掠れた声。息が浅い。
「あぁっ、お父さん、うん、私だよ。レナだよ、大丈夫。魔獣は倒した。もう安全だよ。大丈夫、もう大丈夫。だから——」
父の視線が、ゆっくりと横へ動く。
半壊した部屋へ。
母が寝ていた場所。
「………すまない」
小さな声。
「は……え、なにが? なに言ってるの? まだ間に合うよ、ねぇ、立てるでしょ?」
父は、かすかに首を振った。
「……また、守れなかった……」
その“また”が、頭の奥でひび割れる。
「違うよ、ねぇ。ちゃんと助けるから。お母さんだって、きっと——」
そう言いながらも、視線が勝手に部屋へ向く。
崩れた梁。割れた窓。あまりに静かすぎる空間。そこにあるはずの気配が、何ひとつ感じられない。
父の手が、レナの手を掴む。弱い──驚くほど弱い力だった。それでも、必死に何かを伝えようとするように、指先がわずかに震えている。
「……生きろ。レナ……愛してる」
掠れた声なのに、その言葉だけは不思議なほどはっきりと耳に届いた。
生きろ。
愛してる。
胸の奥に落ちたそれは、熱く、重く、息が詰まるほどだった。
「やだ……」
否定の声は、かすれて音にならない。
次の瞬間、指先の力がふっと抜ける。縋るように掴んでいた温もりが、するりと離れていった。
「あ……?」
何が起きたのか、理解が追いつかない。
「お父、さん?」
呼びかけながら、肩を揺らす。反応はない。もう一度、少し強く揺らしてみる。それでも、何も返ってこない。
「ねぇ、ちょっと……嘘でしょ。冗談だよね」
自分でも驚くほど幼い声だった。さっきまで森で立っていた。怒っていた。心配していた。必死に止めようとしていた。その大きな背中は、まだ確かに温かいのに。
「起きてよ……」
声が小さくなる。揺らす手も、だんだん力を失っていく。
「……ねぇ」
返事はない。
そのとき、視界の端に細い線が映る。
はっとして瞬きをする。けれど消えない。父の身体から、床へと落ちるように一本の線が伸び、そこからさらに幾筋もの歪んだ線が絡み合いながら、部屋の奥へと続いている。
──母がいたはずの部屋へ。
息が止まる。
さっき門をくぐったときに見えた、あの異様な線の群れと同じだ。ただ、今度はもっとはっきりしている。まるで「見ろ」と言わんばかりに淡く脈打ちながら、視線を奥へ奥へと引いていく。
視線が、半壊した部屋から離れない。
気づけば、足が勝手に動いていた。父の手をそっと床に下ろし、ふらつく身体のまま一歩を踏み出す。その瞬間、ふっと視界が揺れ──絡み合っていた無数の線が、音もなくほどけるように消えた。
導きが断ち切られ、残されたのは、生々しい現実だけだった。
それでも足は止まらない。瓦礫を越え、倒れた柱を跨ぎ、抉られた床板の上を進んでいく。
そして──
そこに、母がいた。
崩れた梁の下、横たわったまま、あまりにも静かに。
眠っているみたいに。
「あぁ……」
違う。
これは違う。
そう思った瞬間、胸の奥が凍りつく。
「起きて」
力が抜けるようにしゃがみ込み、そっと手を伸ばす。触れた頬は氷のように冷たい。
でも、まだ温もりが残っている気がした。そう思いたかった。
「だって……」
昨日、あんなに頑張って薬草を届けた。ちゃんと煎じたし、ちゃんと飲ませた。朝には熱も下がっていたし、額に触れたとき汗だって引いていた…のに。
“もう大丈夫だよ”って、言ったのに。
「起きてよ……」
揺らす。
何度も揺らす。
何度も、何度も、何度も、何度も、何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も…
何度やっても動かない。
呼吸の音が、しない。
「違う。違う違う違う」
いやだ。理解したくない。理解するな。
もしこれを理解してしまったら、全部が終わる。
「守れなかったって……」
父の声が蘇る。
「お母さん……」
喉が詰まる。
「あぁ……」
頭の中が白くなる。思考がぐちゃぐちゃに絡まる。
なんで。
どうして。
薬草は飲ませた。
魔獣だって倒した。
守れたはずだった。
全部、間に合ったはずだった。
でも間に合わなかった。
「ぁぁぁぁああああああああぁ!!!」
泣き叫んだ声が、壊れた家の中で反響する。
言葉にならない。
膝が崩れる。視界が滲む。涙か煙か分からない。息ができない。胸が痛い。苦しい。
守れなかった。1番守りたかったものを。
守れたと思った。これで日常に戻ると思った。
でも。何も守れなかった。
外では風が吹いている。焦げた匂いを含んだ煙がゆっくりと流れ、壊れた柵をすり抜け、何事もなかったかのように空へ溶けていく。空は変わらず青く、世界はあまりにも静かだった。
その静寂の中で、レナの喉から零れた嗚咽だけが、崩れた家の中に小さく響いていた。




