16話 静かなる崩壊
魔獣の亡骸を背に、三人は森を引き返していた。しかし、森を抜けかけたところでバイルがふと足を止めた。
振り返った視線の先には、少し距離を取って歩いていたミアの姿がある。
「ミア……と言ったか」
低い声に、ミアが水色の瞳を向ける。
「お前も一緒に村に来てくれ。また境界線を越えることになるが……今ここで姿を消される方が、余計な誤解や亀裂を生む」
その言葉に、空気がわずかに張りつめる。
人と獣人のあいだにある、目に見えない線。
それはレナにも、今なら少しだけ分かる気がした。
ミアはしばらく黙っていたが、やがて短く息を吐く。
「……分かった。今回はそちらに従う」
「助かる」
バイルはそれ以上何も言わず、再び歩き出す。
レナはそのやり取りを見つめながら、胸の奥で小さく思う。
本当の境界は、森の奥だけにあるわけじゃない。人と人のあいだにも、確かに存在しているのだと。
それからまた三人は歩き始めた。
さきほどまで死闘があったとは思えないほど、森は静かだった。
足取りは重い。それでも空気はどこか軽かった。
あの圧倒的な存在を、あれほどの脅威を、自分たちは確かに倒したのだという実感が改めて身体に広がっていく。
ただ一人を除いて。
(さっきの視線……気のせいだったのかな)
歩きながら、そっとミアとバイルの様子をうかがう。
ミアは周囲を警戒しているが、その気配はいつもより柔らかい。戦闘後特有の緊張は残っているものの、どこか安堵も混じっているように見える。バイルも肩の力を抜きつつ、それでも習慣のように森を見渡していた。
少なくとも、何か異変を感じ取っている様子はない。
(……異変があるなら、すぐ気づくはずだよね)
二人とも、私よりずっと強い。経験もあるし、勘だって鋭い。もし本当に何かが潜んでいるなら、とっくに表情が変わっているはずだ。
そう思おうとするのに、胸の奥のざわつきだけが消えない。
「村の連中、腰を抜かすぞ。本当に討ったって言ったらな」
バイルが荒い呼吸のまま苦笑する。
ミアは肩の血を拭いながら、「証拠はあの巨体だ」と淡々と返す。
その横顔に疲労はあっても迷いはない。レナは二人の背中を見つめながら歩いた。胸の奥ではまだ鼓動が速い。頭の奥がじんと痛む。気がかりなこともある。それでも、
(ちゃんと守れた)
あのまま放っておけば、魔獣は確実に浅層へ出ていた。もしかすると村まで来ていたかもしれない。でも止めた。ちゃんと三人で。自分も逃げなかった。そう思うと、胸の奥が少しだけ温かくなる。
「レナ」
不意にミアが呼ぶ。
「さっきのあれは何?」
「ごめん、私にも分からない。ただ、崩れる場所が分かっただけで…」
自分でも曖昧な答えだと思う。
バイルが横目で見る。
「勘にしては出来すぎだな」
「本当に分からないの。ただ、線みたいなのが見えて…」
言葉にすると急に現実味が薄れる。
それでも事実だった。ミアは少しだけ視線を細め、だがそれ以上は追及しなかった。
「今はいい。助かったのは事実だ」
その一言が、思った以上に胸に響いた。
森の奥から浅層へ近づくにつれ、光が増える。木々の密度がわずかに薄くなり、風の匂いも変わる。村はもう近い。
帰れるのだと、ようやく実感が追いつき始めたその時だった。
ミアが突然、足を止める。
耳が立ち、鼻先がわずかに上を向く。空気を吸い込む動きが、いつもより慎重だ。
「どうした」
バイルの声が低くなる。
ミアはすぐには答えない。もう一度、深く息を吸う。そして、わずかに眉を寄せた。
「……煙の匂いがする」
レナの胸が小さく跳ねる。
「焚き火、じゃないの?」
そうであってほしいという願いが、声に混じる。
「違う。もっと濃い。焦げた木と……布、それに鉄の匂いが混ざっている」
鉄……、血?
言葉にされなくても、意味は伝わる。バイルの表情が変わる。
「方向は?村からか?」
「多分、でも断定はできない。だが、浅層の匂いじゃない」
三人は自然と歩みを速めた。森を抜け、浅瀬を越える。視界が少しずつ開けていく。村へ続く道が見えた瞬間、レナは立ち止まった。
黒煙が、空へ立ちのぼっている。
一本ではない。いくつもだ。風に流されながら、空を汚している。
「……うそ」
喉が乾く。さっきまで胸にあった“守れた”という感覚が、音もなく崩れていく。
「魔獣は倒して、森は戻ったはずなのに…間に合わなかったのか……?」
バイルが低く呟く。
そう、魔獣は倒した。あれが森の異変の原因だったはずだ。終わったはずだ。なのに、どうして煙が上がっている?
森を抜けた先に、村の柵が見えた。
その瞬間、胸がひどくざわつく。遠目にも、門が歪んでいるのが分かった。いや、歪んでいるんじゃない──壊れている。
嫌な想像が、頭の奥で勝手に膨らむ。
「行こう!」
思わず叫んだ声は、情けないほど裏返っていた。気づけば、レナは走り出している。背後からバイルとミアの足音が追ってくるが、振り返る余裕はない。
近づくほどに、空気が変わっていく。
鼻を刺す焦げた木材の匂いや焼けた布の甘ったるい臭気。そして、はっきりと分かる──血の匂い。
門の前で、思わず足が止まる。
壊れた柵の向こうに広がるはずの見慣れた景色は、どこか遠いもののように感じられた。
耳を疑いたくなるほどの静寂。いつもなら子どもたちの声や家畜の鳴き声が響いている時間のはずなのに、何も聞こえない。ただ、崩れた門の向こうで、くすぶる煙だけが静かに揺れていた。
──遅かったのか。
その言葉が、喉の奥までせり上がる。
けれど、まだ見ていない。まだ、確かめていない。
レナは歯を食いしばり、壊れた門へと駆け込んだ。
壊れた門を過ぎた瞬間、一瞬また線が見えた。
あの魔獣の時と似ているが、おかしい。数があまりに多すぎる。家々の間に、地面に、空気の中に、歪んだ線が複雑に絡み合っている。
息を呑み、思わず瞬きをすると、それは消えた。
代わりに押し寄せてきたのは、容赦のない現実だった。崩れた家屋、倒れ伏す人影、血に濡れた地面。焦げた匂いと鉄の匂いが混じり合い、胸の奥を締めつける。
心臓が、どくりと嫌な音を立てた。
足が、勝手に家のほうへ向かう。考えるより先に、身体が動いていた。煙の向こう、崩れ去った日常の中心へ。
三人は無言のまま駆け出す。まだ何も確定していない。
まだ、終わったと決まったわけじゃない。そう自分に言い聞かせながら、レナは壊れた家へと走り出した。




