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ゆくすえ  作者: あかるい
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エピローグ




 夫が放火犯だなんて、笑える。

 あの人は「ちがうよ」なんて笑うけど、そうじゃなかったらこういうふうに、放浪するわけがない。

 放浪についていくと決めたのは、あたしの意志。せっかく就いた教職の仕事も辞めて、いきなり「旅に出る」と言ってきたとき、あたしはそれほど驚かなかった。むしろ働いている方がヘンだと思った。もともと時間も忘れて、数理哲学を証明することに命をかけているような男だったから、定まった場所で働くのに向いていないと思った。それに放火犯がこんなところで呑気に過ごしているのは、さすがに呑気すぎると思った。だから、「そうですか」と返した。「君はどうする?」と尋ねられ、「行こうかな」と言った。それだけ。そのやりとりだけで、この旅は始まった。

 “事件”のあと、あたしたちは籍を入れた。彼はあたしの夫になり、あたしは彼の妻になった。〈妻になる人〉というところに、馬鹿正直に自分の名前があることがおかしくてげらげら笑っていたら、役所のオババににらまれてしまった。〈妻になる人〉になったって、何が変わるわけじゃない。あたしは晴れて「恩田めるろ」になったわけだけれど、今でも夫のことは「おんだ」と呼んでいる。恩田は「しゅんすけ」でも「しゅんちゃん」でも「すけさん」でもなくて、やっぱりあたしの中では「おんだ」だからだ。〈妻になる人〉になったら、〈夫になる人〉から「おい」とか「おまえ」とか「家内」とか「嫁さん」とかいうふうに呼ばれるのかと思ったけれど、恩田も変わらずに、あたしのことは「めるろ」や「めるろちゃん」と呼んだ。だから何も変わらなかった。けれども、あの紙っきれひとつを提出しただけで、なんだか恩田という人間が自分の身体により深く溶け込んでくるような思いがした。生まれ育ちも何もかもが異なる他人が同じ血縁として括られるのは、おもしろいとあたしは思う。結婚。結婚だって。ひゃー!超おもしろい。

 いま、あたしたちは海辺のボロ家に住んでいる。掘っ立て小屋みたいなところ。トイレは一応あるけれど、和式。バスタブはない。シャワーだけしかついていないから、湯船に浸かりたいときは公民館の隣にある銭湯に行く。まさにご飯を食べて眠るだけのところ。恩田によればこれはいわゆる“仮住まい”なのだから、ぼろぼろでもかまわないらしい。「このまま歩いてめるろちゃんの故郷を目指すんだぜ」と恩田は笑って言っていた。「ヤドカリのように家を転々としてみるのもおれの夢のひとつだったんだ」それならいいとあたしは思った。恩田の夢が一応、今のところ、あたしの夢でもあったから、その通りにしようと思った。

 恩田は日雇いの仕事をしながら、あたしはスイミング教室で受付のアルバイトをやったり、詩を書いたりしながら稼いでいる。ある程度資金が貯まったら、ふたりでまた進んでいく。昔の偉人にイノウタダタカ、という人がいるらしい。歩いて日本地図を作った人だそうだ。恩田は日本地図こそ書かないけれど、ゆく先々で休憩するときは、小さなリングノートに街のスケッチを描いている。それを見ているのが、あたしは好き。もう少し暑くなくなれば、また歩き始めることができるんだけど。近頃は暑くて歩けたもんじゃない。

「めるろさんて、何者なんですか?」

 シフトが被っている女子高生が、そんなことを聞いた。この近くの高校に通っているらしい。髪は茶色く染めている。染めない方が似合うのに。

「どうしてそんなこと聞くの?」

「だって、ヘンなんだもん」

「なにが」

「めちゃくちゃ美人だし、オーラがあるし、芸能人みたいなのに、こんなド田舎にいる」

「そうかなあ」

「普通の人とは違う感じがしますよ。化粧水とか何使っているんですか? ……あ、てか最近新しく入ってきた先生、見ました!? かっこよくないですか? マエダさんでしたっけ、色黒で素敵な……コウダさんもいいけど、マエダさんも彼氏としてありですよね。めるろさんどっちがタイプですか?」

「マエバもウシロバもわかんないよ」

「前歯だって! きゃはは。確かに前歯ちょっと出てますけどー。めるろさんやっぱりへん。マエダさんは分からないけど、コウダさんは確実にめるろさんを狙ってますよ」

「あたしは、筋肉ムキムキの男は好みじゃないのよね」

「えー筋肉ある方が男らしいのに。水泳やっている人なんて特に! いざというときに守ってくれそうじゃないですか」

「男らしさってのは筋肉で決まるわけじゃないのよ。お嬢ちゃん」

「じゃあめるろさんはどんな人がタイプなんですか」

「そりゃあもちろん、鍛錬と苦しみを積んだ手品師よ」

「なにそれ? やっぱりヘン」

  恩田と付き合い始めたばかりのころは、彼の風変わりな言動をヘンだヘンだと思い、ときには苛立つこともあった。しかしいつのまにか、自分までもが“ヘン”になってしまったようだ。いまではヘンな男をヘンなふうに好いて、ヘンな男の言ったヘンな提案に乗ってここにいるのだから、確かにあたしはヘンな女なのだと思う。ヘンは伝染するぞおっと彼女に言って襲いかかるそぶりをすると、彼女はきゃあきゃあと笑い声をあげた。ちょうどそのころレッスンを終えた子供たちが走ってきた。あたしは身を乗り出し、キャラクターのスタンプを押してやる。夏休みの宿題は終わったの? きょうの水泳検定どうだった? お盆休みはどこか行くの? 声をかけると、子供たちは次々と話し出すのでかわいらしい。このアルバイトを始めたばかりのころはガキなんかうるさくて大っ嫌いだと思っていたけれど、こうして話してみると彼らにも彼らの世界が広がっており、面白いなあとあたしは気づくのだった。

「めるろさんも、やっぱりこのバイト、八月いっぱいまでですか?」

「そのつもりではあるけれど」

「ですよね、あーあ、学校始まるの、嫌だなあ。わたし保育の専門学校にいくつもりだから大学受験もないし、最低限学校に行っていれば合格できるんですよね」

「勉強は大切だよ。あたし最近、連立方程式とか勉強しているもん」

「めるろさん、やっぱりヘン! ヘンすぎますよ」

「ヘンは感染する」

  ぎゃー! と彼女は頭を抱えた。あたしは腹をかかえて大笑いをする。すると子供たちもつられて頭をが抱える真似をし始める……


「楽しそうでよかった」

「ヘンって言われちゃったけどね」

 帰ってきた恩田はあははと笑った。そりゃあ中学校の教科書をわざわざ買って学んでいるんだから、ヘンかもしれないな。不定期で開催される、おれとめるろちゃんの個別指導塾だものね。

「連立方程式はようやく分かるようになった、恩田のおかげ」

「もう哲学はいいの?」

「飽きたのよ。実存主義なんか、なんの役にも立たないって気づいたから」

 身体に触れることはできても、あなたの心を覗くことまではできない。口には出さずに、そのまま恩田を見つめる。彼の上半身には、かなり筋肉がついた。それは昔……はるか昔にあたしの周りにいた男たちーー筋肉をつけるためだけにプロテインやらトレーニングやら試行錯誤をして肉体を作り上げていた者たちとは、まったく別の、肉の付きかただった。実生活の中で育まれた肉体。今の仕事、意外と楽しくてさあ。日雇いだとやっぱりいろんな人種がいるんだよな。同じ持ち場に朝鮮人がいてね、国の話を話してくれて面白いんだ。恩田はそう話しながら、おもむろにキッチンに向かった。

 簡易的なパスタを作り、買ってきたビールを飲む。バジルの豊かな香りが空間に広がる。恩田はあまり酒を飲まない。あたしは仕事を辞めて飲まなくなったからだろうか、服薬をしているからだろうか、少量でアルコールがまわる身体になった。

「ね、あたし、恩田と結婚してよかったと思っている」

 顔を熱らせたあたしは、両足を投げ出して天井を仰いだ。久しぶりのアルコールは気持ちがいい。

「普通の暮らしができていないのに?」と恩田。

「いやいや、普通の暮らしでしょ、これだって。ボヘミアンっていうの、ピッピーっていうの? たのしいよあたし。慣れればすべての生活が、“普通の暮らし”になるのよ」

「それもそうだ」恩田はポツリと言った。

「ほんとは後悔しているんでしょ」素早くそう尋ねると、

「君を連れてきたことはね」

  と、穏やかに恩田は言った。なにそれ、ひどい。あたしはダラリと彼の背中に覆い被さる。なんだか酔ってきたーと口にだす。どくどくと心臓が高鳴っている。ほおが熱い。恩田があたしを組み敷いて、口付けた。そうして上体を起こし、見下ろしてくる。あたしの視界はぼんやりとかすんできて、恩田のことがはっきりと見えない。だから目を閉じて、言う。

「恩田とこれからも一緒にいるんだって、ずっとずっと思っているんだよ」

 恩田はあたしのほおをやさしく撫でた。目を開ける。下から見ても美しい恩田。この大きな手。しなやかな腕。あたしのものではない。かつてはあたしのものだと思い込んでいたけれど、結局あたしのものではなかったもの。そうだとしても、愛しくて仕方ないもの。大好きなもの。とても愛しくて、大切なもの。この静かな田舎町では、波の音と、恩田の呼吸だけが聞こえてくる。これでよい。これがよい。こうなるために、あたしは強姦され、こうなるために恩田は“事件”を起こしてきたんだ。しかし、それを口をするといつだって恩田は黙ってしまう。いつも、恩田は俯くだけだ。困っている様子もなければ、後悔している様子もない。ただ、ニュートラルに黙って俯いている。

 恩田があたしと別れたがっているのをあたしは知っている。けれど、それはあたしを……もう強姦された証拠が残っていないあたしを、逃亡に携わった一加害者として貶めないためだっていうことも、分かっている。分かっているからこそ意地でも離れたくなかった。離れないために、ひとりで婚姻届を書いて、渋る恩田を半ば脅迫してまで書かせたのだった。

「もう寝ようか」恩田は横たわって、タオルケットをかけた。

「うん。恩田が寝るまで、見ている」あたしも隣に横たわる。

「じゃあおれも、めるろちゃんが寝るまで見ていよう」

 たいていは、恩田の方が眠るのが早い。当たり前だ。毎日身体を動かしているのだから。今の仕事場は資材運びだったかな。よく知らない。恩田のまぶたが降りてゆくのを見つめるとき、あたしは起こったことすべてが夢だったんじゃないかなあと思ってしまう。あんなこと、しなくてよかったのに。この人、人なんて、殺さなくてもよかったのに。

 というか、この男はほんとうにオーナーを殺したのだろうか? ほんとうに殺意があって実行したのだろうか? 建物が燃えるのを見たかっただけではないだろうか? そんなことを思う。それは、あたしを助けるという建前の後ろに、そういう欲望が隠されていたんじゃないかって。

 根拠はない。

 ただ、ときどき、ほんとうにときどき。その恩田のうつむいた表情を見た時に、なんとなくそう思うだけ。


 アルバイトを辞める直前に、前歯(後歯かも、わからない)に告白された。「あたし、結婚しているのよ」って答えたら、めちゃくちゃ驚かれた。しまいには怒りだして、「俺を弄びやがって」とか「クソ人妻」とか「旦那の金食い虫(これにいたってはほんとうに謎だ)」とか言われた。あたしは前歯と一緒にご飯を食べたこともなければ、ベッドにだって入ったことがないのに、こんなふうに罵倒されるなんて、わけがわからなかった。場を和ませようと「あなたは将来、水泳選手にはならないんですか」と尋ねたら、余計に怒られてしまった。耳が赤くなって全身の血管が膨らんで、今にも風船のように浮かんで行ってしまいそうな顔をしていた。恩田は、「水泳選手にはなれなかったから、嫌な気持ちになったんだよ」とあたしをたしなめて言った。会ってばかりのときはあたしが恩田に諭すことが多かったのに、今となっては恩田がラビのように、あたしをたしなめている。アルバイトは八月いっぱいまで、と決めていたのだが、九月の半ばに入っていた。そろそろ移動できそうだった。あたしたちは海辺の家を出て、また南の方へ歩き始めた。夕刻。とろけそうな太陽が、山の向こうに沈むのを、あたしたちはぼんやり見ている。

「恩田、あたしの故郷にいくってほんとうなの」

「ほんとうさ」

「どうしていきたいの」

「めるろのおじいさんに会いたいんだ」あたしの一歩後ろを歩んでいた恩田がそっと指をからめてきた。

「おじいちゃん、ずっと前に死んでいるよ」あたしも恩田の長い中指を握った。

「いいんだよ」

 歩幅が重なる。波の音が心地よい。恩田の指も、温かかった。うとうとしてきて、恩田にもたれかかって歩いた。恩田はあたしよりもずっと背が高い。体幹もある。あたしがもたれかかっても、びくともしない身体を持っている。ちゃんと存在していることを確かめるように、彼の背中やお尻に触れる。あたしの故郷を見に行くことよりも、恩田の故郷を見に行った方がいいと提案したけれど、「おれには故郷がないから、後でね」と却下されてしまった。新潟に持ち家がないからと行って、故郷でなくなるということではないだろうに。あたしだってそう。じいちゃんの家には、もうじいちゃんはいないのだ。ママしかいない。けれどどうせママも彼氏と遊ぶのに夢中で、定住していないんだろう。けれどもあそこは、確かにあたしの故郷だ。石垣に囲まれた粗雑な土地と強い潮の匂い。しんしんと、びょうびょうと広がる藍の海。あれはあたしのノスタルジーでもある。あたしはもう、すべてを恩田に差し出したつもりだ。もはや恩田に知ってもらうことも、隠していることもなにもない。でも恩田は持っている。秘密を持っている。うつむいたときの表情の奥にあるもの。結婚して、近くなったはずなのに、恩田の身体の奥の奥を見ることができない。彼のすべてを背負うつもりで、あの“事件”をーー向こう岸の火事を見つめたはずだった。けれども彼は明かそうとしない。なぜ? あたしにはわからない。恩田のほんとうをあたしは理解していないことは、辛いものだ。だから新潟に行きたかったのに。恩田の故郷に行きたかったのに。

 恩田は、あたしと夫婦になる代わりに、それを譲らないことを決めてしまった。恩田は自身の罪を、自身で背負おうと決心した。そしてそれをわたしに伝えないことも選択した。結局その決心が揺らぐことは、最後までなかったのである。


 恩田が捕まったのは、その半年後だった。放火犯は捕まりにくいと思っていたけれど、隣のチェーン店の監視カメラが役に立ったらしい。事件の前には至るところで不審火もあって、警察は前々から恩田を目につけていたようだった(そのことを恩田自身も知っていたのだと思う)。数々の場所で予行練習したということで、その用意周到な計画性も非難されていた。あたしは傍聴席から、恩田の綺麗に刈られたうなじをぼんやり見ていた。なんだか知らない男を見にきているみたいだった。被告人は「燃える建物が見たかった」と答えた。あたしのことは、なにひとつとして言わなかった。「妻が強姦された腹いせにやりました」と言えば、結果は違ったのだろうか? けれどもあたしを強姦した男たちと店のオーナーとの繋がりは、決定的な証拠に欠けていた。それにそもそもオーナーが強姦を指示したことさえ、証明できない。

 あたしと夫の旅はあっけなく終わった。互いの故郷へ行く前に終わってしまった。パタンと本が閉じられるように終わってしまった。夫が逮捕されてすぐ、あたしは身重になった。目まぐるしく変わる身体を持て余しながら、何回か会いに行った。面会する時はいつも、彼はにこやかに笑っていた。来てくれてありがとう、めるろちゃん。あたしが「ほんとうのことを言ってほしい、ほんとうのことを言えば、きっと弁護士もよくしてくれる」というと、「ほんとうのことを言ってきたつもりなんだよ。おれにとってはあれがほんとうのことなんだ」と言った。「火事が好きなのはほんとうのことなんだ」

「……赤ちゃんの名前、なにがいい?」返答に困ったあたしは、そんなことを尋ねる。

「めるろちゃんみたいな名前がいいと思う」

「哲学者ってこと? パスカルちゃん、ベーコンちゃん、アウグスティヌスちゃんとか? やばくない? まだ性別もわからないのに」

「まあ、男でも女でも同じことだから」

 それもそうだとあたしは思った。あなたの蔵書にあった名前からピックアップしてみるわ。夫は楽しみにしていると微笑んだ。その三か月後、彼は死んだ。靴下を首に巻き付けて死んだ。自殺だった。簡易的に火葬された遺骨と、数少ない遺品をもらった。恩田が描いていたスケッチには、あたしに当てたメモがあった。“沖縄で文章を書くように。書き続けるように” あたしは穴が開くほどそれを見た。じっと、黙って見た。

 恩田はどうして死んだんだろう、と思って、遺骨を受け取る際に、

「どうして死んだんですか」

 と聞いてみた。刑務官は答えてくれなかった。困った顔をして首を横に振った。誰も答えてくれなかった。ただ、

「どうしておんだ、あたしのこと置いて、死んじゃったんでしょうか」

  鬱病だったらしい。


 子供が生まれた。らかんと名付けた。女の子だ。ひらがなで、らかん。超かわいい。あたしの子供なんだから、かわいいに決まっているんだ。でもいくら可愛くても、女優やアイドルには絶対にさせない。こんなかわいい子、危険な目に合わせたくない。身体も魂も強姦させない。放火させない。病気させない。精神病にも絶対にさせない。色々考えて、あたしは故郷に戻った。岬の近くのアパートを借りた。ママにも会いに行こうかと思って調べてみたけれど、全く情報をつかめなかった。0才のらかんちゃんは、よく泣く。よく笑う。よくうんちする。よく食べる。そしてよく、あたしのことを見てくる。あたしはらかんを抱いて海へ連れていく。光に照らされてゆらめく波を見つめるために。

「らかんちゃん。恩田が、死んじゃって一ヶ月も経つんだよう」

 らかんちゃんは、言葉がわからない。何もわからなくて、あたしに抱きしめて欲しくて、純粋に笑いかけてくる。もう恩田はどこにもいない。恩田の身体がいまここにないということ、この世に存在しないということ、それは恩田が完全に「なかったことにされた」ということ。死者は心の中で生き続ける、なんて、大うそだ。そんなのは生きている人が自分を慰めるために考えついた都合のいい言葉だ。恩田が死んだということは、誰がなんと言おうと、もういないということなんだ。恩田がいないということなんだ。遺骨そのものが恩田なわけじゃない。それは単純に恩田の中に入っていたものでしかない。

「恩田に会いたいのに、いないのよ」

 らかんの笑い声が止まった。ふしぎに思って見下ろすと、彼女は指を咥えて、じっと海を眺めていた。はっと息を呑む。涼やかな口元が、似ていた。似ていた、とても。恩田に。ああ、ここに

「いるんだ」

 恩田の残したものを強く抱いて、地平線を眺めた。雲がゆっくりと、ゆっくりと流れていた。彼女が再び弾けるように笑ったとき、あたしの瞳から、ようやく涙が溢れてきた。


『われわれは諸経験の連結という奇跡にたえず立ち会っているのであり、またわれわれこそ諸関係の結び目なのだから、この奇跡がどのようにして生ずるのかを、われわれ以上に知っているものはいないのである。世界も理性も問題とはなり得ないのである』 




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