第5話 聖女さまは、調印したい
フランスは、イギリスの今は細い女の腕をつかんで、大股で、大広間の中をすすんだ。調印がおこなわれる壇上へ、まっすぐにすすむ。
背の低い聖女の姿をしたイギリスが、走るようについてくる。
へえ、背が高いと、随分歩くのが早くなるのね。わたしだって、歩くのが遅い方ではないけれど。
イギリスは、無理矢理引きずられるように、ついてきた。フランスは歩みをゆるめようかと思ったが、思い直してより大股で歩いた。
どうせなら、なんだか怖い雰囲気を最高値まで上げておきたい。
はたから見ると、魔王がむりやり聖女を檀上まで連れて行ったように見えるだろう。
いいわ、このまま、引きずって行こう。
壇上にそのまま上がると、スイス大公は、おどろいた顔で、こちらを伺うように見た。シャルトル教皇は非難するような目をこちらに向けている。
フランスは、できるだけふたりとは目を会わせないようにして言った。
「調印式を」
シャルトル教皇が、女とみまごう美しい顔をひそめ、フランスに向かって、しずかに言った。
「聖女をおはなしください」
ああ、今日も聖下はお美しいわね。
怒った顔も、素敵。
しかし今は、心を鬼にして魔王になりきる。フランスは、強めにもう一度言った。
「調印式を」
お願いだから、調印式をはじめてください。
フランスは心の内で祈った。
シャルトル教皇はさらに何事か言おうとしたようだったが、気持ちをおさえるようにして、スイス大公の方を向いた。スイス大公も、戸惑いつつも、うなずいて、式の開会を宣言する。
とんでもない空気を感じながら、尊大な態度とは裏腹に、フランスの心の内は荒れていた。
もう、気を失いたいくらいよ。
式は、難しいものではなかった。停戦協定のほんの最初の部分にふれ、あとは、シャルトル教皇とイギリス皇帝が、二通の紙に、それぞれサインをするだけだ。
スイス大公が、式文を読み上げたのち言った。
「では、サインを」
ふたつ用意された、調印台の上に紙がある。
シャルトル教皇が、サインをする。
いよいよね。
フランスは、できるだけ尊大に、聖女の姿をしたイギリスに言った。
「わたしの名を記せ」
シャルトル教皇が、驚いたように顔をあげて、こちらを見た。
あたりに、また、ざわめきが広がる。
何か言われる前に、たたみかける。
「これから友好国となるだろう教国の聖女殿は、わたしの名をよく知っているだろう。その聖なる手で、わたしの名を記せ。皇帝の名において、聖女フランスが記したわたしの名を、正式なサインとする」
意外にもイギリスは、ちらとこちらを見上げたのち、すんなりとサインをはじめた。
助かるわ。
お願いだから、誰かが何か言う前に書いてしまって。
シャルトル教皇が、何か言おうと口をあけた。
フランスは、先に言った。
「あなたの国の聖女だ、わたしの手で書くよりも、あなたがたの主もよろこばれる。そうだろう?」
少しの間、見合う。
聖下、すてき。
スイス大公が、わざとらしく咳ばらいをする。彼は、ひかえている側付きの者に向かって、だが大きくまわりに聞こえるように言った。
「イギリス陛下のサインに関する言葉を、停戦協定の末尾に追記しておけ」
助かります。
スイス大公陛下に、この世のすべての祝福がふりそそぎますように。
そのいかにも裕福な大公国の主っぽい、整えられた紳士なおひげ、素敵です。
フランスは心の内で、寛大な措置に礼をした。
シャルトル教皇は、そのあとは何も言わず、サインをした。
フランスはばれないように、ちいさく息をつく。
さすがに、ちょっと、こわかった。
お互いの場所を入れ替えて、また、サインする。
よしよし、なんとかなったわ。
でも、この後、どうするか、考えものね。
フランスは、サインをするシャルトル教皇の姿を盗み見ながら考えた。
聖下はお優しい。
もし、この後、魔王イギリスが立ち去ったら、彼はきっと、聖女フランスに声をかけるだろう。もしや、部屋に呼び出して、事情を聴くくらいのことまでするかもしれない。
そうでなくても、他の司教たちも、黙ってはいないだろう。
フランスは、ちらりと後方の司教たちが立ち並ぶほうを見た。
中には、うまの合わない者もいるのよね。
この派手な出来事に対して、つっかかってくる者もいるかもしれない。中身がイギリスの聖女が、それらをうまくあしらえるだろうか……。いや、無理なような気がする。もし、知らずに、目上の者に対して無礼な態度をとれば、ややこしいことになる。
どちらにしろ、昼餐会までの間に、イギリスの部屋にフランスの身体がたどりつくのは、難しいように思われた。
うーん。
あ。
どうせなら、このまま、無理やりに、部屋まで聖女を持って帰ればいいか。どうせ、無茶苦茶しているのだし。
フランスが、思い悩んでいる間に、サインは無事に終わった。スイス大公が、ふたつの書類を確認し、無事に調印式の閉会が宣言される。
宣言されると同時に、フランスは急いで、またイギリスの細い女の腕をつかみ、大股で大広間の出口に向かった。
すると、シャルトル教皇の厳しい声が背にかかる。
「陛下、聖女をどこへ連れてゆくおつもりです」
フランスはふり向き、シャルトル教皇の静かに怒るような顔を見て、うっとりした。
シャルトル教皇は、女とみまごう美貌を持ち、若くして教皇の座にまでかけ上った、たぐいまれなる才能をもつお方だ。教国では、そのお姿を、まるで絵画からそのままあらわれ出た、大天使ガブリエルのようだと言う者さえいる。
才能や、美貌だけではなく、慈悲深く愛情豊かなことでも知られている。
ああ、あんなに怒ってくださるなんて。
素敵だなあ。
だが、今のフランスは、魔王なのだから。魔王らしく、聖女をなんとか連れ去らなければならない。
その時、鐘が鳴った。
正午の鐘だ。
一瞬、眩暈のように、目の前の景色があやしく溶けた。
はっとして、目を瞬かせると、目の前に、豪華な飾りのついた服がある。
見上げると、魔王イギリスの顔があった。
フランスは、帝国の皇帝である男、イギリスに腕をつかまれて、彼のとなりに立っていた。
あ、身体が、戻ったんだ。
えっ‼
この、タイミングで⁉
***********************************
おまけ 他意はない豆知識
***********************************
【大天使ガブリエル】
聖書においてガブリエルは「神のことばを伝える天使」とされています。
西洋美術では多くの場合、優美で女性的な青年の姿で描かれます。
【シャルトルは美しい?】
シャルトル大聖堂は、フランスの世界遺産。
フランス国内において《《最も美しい》》ゴシック建築のひとつと考えられています。