第212話 消えた記憶
フランスはヴラドが去ってから、すでに書き上げていたイギリスへの手紙の最後に、つけたして書いた。
さっきヴラドが来たわ。
血を飲みに来たから、あげたけれど、あなたが心配するようなことはなかったから。
それだけ書いて、もう限界に近いほど重くなったまぶたをこすり、手紙はイギリスが読みやすいよう机の上に置き、ひろげていた聖下コレクションは引き出しにしまった。
引き出しをあけて、そこにある肖像画に気づく。
あ、これ、アキテーヌから持って帰ってきたやつ……。
そうだ、アミアンに聞いてみよう。
この肖像画に見覚えがあるかどうか。
フランスの口から、おおきなあくびがでる。
だめだわ。
もう限界。
フランスは勢いよくベッドに横になって、そのまますっかりと眠ってしまった。
*
フランスはアミアンと連れだって、午後の町を歩いていた。
目指す先は、教会からほど近い、修道院だ。
いつもなら、誰に見とがめられることもなく、地味に移動するのに、今日は様子がちがう。教皇直属の騎士団と、帝国の騎士団が、フランスのまわりをがちがちに護衛している。
まるで、ものものしい行列だった。
目立つわね……。
イギリスが去ってからというもの、どこへ行くにもこの調子だ。
町の人間から生卵をぶつけられる心配はないが、毎回仰々しくて疲れる。
こういうのも、慣れるのかしら。
アミアンが、となりを歩きながら言う。
「昨夜は、ヴラド様がいらっしゃったんですね?」
「ええ、そうなのよ。急にコウモリの姿で部屋に飛び込んできて、びっくりよ」
「陛下が、手紙をお読みになって、ヴラド様に対してひどく怒っておられました」
「え、そうなの? 心配するようなことはなかったって書いたけれど……、眠くて詳しく書く時間がなかったのよね」
「血を飲みに来たんですか?」
「そう。お腹ぽてぽてになるまで血を飲んで、ひと眠りしてから帰っていったわ。すごく、かわいいのよ。子コウモリって感じ」
「でも、夜遅くにお嬢様の部屋に忍び込むのは、いただけません」
「なんか、ヴラドは大丈夫な感じがする。全部、わたしに許可もらわないと、なにもしないのよ」
アミアンが心配そうな顔で言う。
「陛下と、どっちのほうが無害そうですか?」
「ヴラド」
アミアンが、驚いた顔をした。
「そんなに?」
「そんなによ」
「それなら……、大丈夫そうですね」
「あ、ねえ、それよりも、アミアンにこれを見てもらいたかったのよ」
フランスはポケットに入れておいた肖像画をアミアンに手渡した。
アミアンがそれを見てすぐに反応する。
「わ、懐かしいです。お嬢様と、旦那様と、奥方様ですね」
「えっ、アミアン、この女性覚えているの?」
フランスが肖像画の女性を指さすと、アミアンが怪訝な顔をした。
「お嬢様のお母様でいらっしゃいます」
フランスの微妙な反応を見てか、アミアンがさらに怪訝な表情を深めて言った。
「……覚えて、いらっしゃらないんですか?」
「うん。全然、記憶にないの。あなたのお母様のことは覚えているのに」
「わたしの?」
今度はアミアンの表情が妙だった。
「そ、そうよ。妖精の国の女王様みたいに綺麗な姿と、綺麗な歌声をしていたじゃない、アミアンのお母様」
「え……、覚えていません」
ふたり、顔を見合わせる。
フランスは、思い出しながら言った。
「ねえ、覚えている? アキテーヌの城の庭園で、あなたのお母様の歌声を聞いたわ。花が咲き乱れる庭園で。何度もよ」
アミアンも思い出すようにしながら言った。
「奥方様は竪琴の名手でいらっしゃいました。庭園の東屋で、よく竪琴を聞かせてくださいました。お嬢様と一緒に、何度も聞いた記憶があります」
おかしい。
ふたりとも、同じような記憶があるのに、そこにいる人間が違う。
お互いの母親を覚えていない?
そんなことある?
フランスは、ずっとおそろしくて聞けなかったことを聞いた。
「アミアン、あの最後の日。アキテーヌを追われることになったあの日よ。わたしの記憶では、庭園をあなたと、あなたのお母様と一緒に急いで横切っていた記憶があるの。でも、そのあと、記憶が途切れる。つぎに記憶があるのは、わたしの自室で、あなたと二人、部屋のすみっこで震えているところを帝国の騎士に見つかるところよ」
アミアンが首をふりながら答える。
「おかしいです。わたしの記憶では、庭園を逃げるように急いでいたとき、その場にいたのは奥方様とお嬢様とわたしでした。そのあと、わたしも記憶が曖昧で、同じように、お嬢様の部屋の記憶はあります。ずっと、このことについて、お嬢様に聞けませんでした。奥方様がどうなったのか……、おそろしい記憶なんじゃないかと思って」
驚いた。
まるでふたりとも同じように考えていたらしい。
フランスも、そのときに記憶から消したいほど残酷な出来事があったのではないかと、そのことについて話さなかった。そのせいで、アキテーヌを追われて以来、アミアンの母親について会話することもなかった。
フランスは、あらためてアミアンに聞いた。
「あの日、最後にお父様が処刑されたことは、覚えている?」
「はい、覚えています。あのアキテーヌの広場で起こったことは全部……」
フランスは、思わず自分の手を、ぎゅっと握りしめて言った。
「なぜ、わたしたち、自分の母親について覚えていないのかしら……」
「妙ですね。わたしの母……、と奥方様は、結局どうなったんでしょうか?」
「本来なら、お父様が処刑されるときに、いたはずよね。わたしたちはその場にいたんだもの。……ふたりだけ逃げたとか?」
「それは考えにくいような気がします。奥方様は、目に入れても痛くないほどお嬢様のことを溺愛しておられましたし」
「え、そうなの⁉」
「はい。びっくりするほどデレデレでした。この肖像画も、たしかお嬢様がほしがっていたしかけ箱がすぐには作れない人気の注文品で、待てないお嬢様が暴れないように、旦那様の仕事まで中断させて、お嬢様とすごすために奥方様が描かせたものですよ」
「この肖像画、しかけ箱に入っていたわ。わたし、しかけ箱がほしくてねだったことだけは覚えているの。でも……だれにねだったかは覚えていない」
「奥方様にすごい勢いでおねだりされてました。で、時間つぶしの肖像画は、すごく大きいものと、しかけ箱に入る大きさのものが、奥方様の命令で作られたんです」
えぇ、なぜ覚えていないのよ……。
フランスも、優しかった乳母の姿を思い出して言った。
「アミアンのお母様は、わたしの乳母でもあって、わたしとアミアン、どちらも分け隔てなく接してくれたわ。すごく素敵で優しい方だった」
「そうなんですね」
修道院につくまで、ふたり、お互いの母親について、どんなだったか話し合う。
どれも、まるで覚えのない話ばかりだった。




