第1話 聖女、股を打つ
「へえ、これって夢かしら。男の、しかも魔王の姿になるなんて」
聖女フランスは、かがみをのぞき込みながら言った。
「とりあえず、男の姿になったのなら、気になっていたことを確かめないとね」
鏡に映るのは意志の強そうな男の顔で、その手には、燭台がある。聖女フランスは、鏡に映る、いつもの自分とはずいぶん異なる顔を、にやりとさせて、言った。
「本当に、股を打ったら痛いのか、実験してみましょう」
*
フランスは、いつもどおり、夜明けとともに目覚めた。
見慣れない天井を、ぼーっと見つめる。
あれ、ここ、どこ?
あ、そっか、出張中だったわね。にしても、こんなに、立派な天井だったかしら。
目の前にある天井には、装飾画がほどこされている。ベッドのまわりにある柱も、華美な装飾がほどこされていた。天蓋からつるされた布はたっぷりとして、重そうだ。金糸で模様が縫い込んである。
いや、豪華すぎるわね。
ベッドから足を降ろして、フランスはぎょっとした。
なに、この足。
妙に大きく感じる。
むくみ?
やだ、こわい。
ひざに手を置いて、さらにぎょっとする。間違いなく、いつもの自分の手とは、様子が異なる。筋張った、男の手が、そこにあった。
フランスは立ち上がり、部屋を見わたした。
「どこ、ここ」
そう言って出した声に、さらにぎょっとさせられる。
低い、男の声だった。
フランスはその場で身を固くして、まわりを見た。
昨夜、眠りにつく前に見た部屋とは、まったく違っていた。
窓から、夜明けの陽がさしこんでいる。窓の横にあるものが目について、フランスは走り寄った。
いやに立派な鏡台だ。
鏡をのぞきこんでみる。
「えっ」
鏡の中に、見たことのある顔があった。
「魔王イギリスの顔じゃない、これ」
過去に一度、式典で見たことがあるくらいだったけれど、昨日はたまたま、まあまあ近くで見たから、間違いない。
髪には寝癖があり、ゆったりとした部屋着姿だが、目の前の鏡に写っているのは、帝国の皇帝たる男だった。
フランスは右をむき、左をむき、男の、いや今は自分の顔を見た。
きれいな顔をしていると思ったけれど、近くで見てもきれいな男ね。
在位三百年をこえるという噂だけれど、姿だけで言えば、まだ三十になるかならないか、という年頃に見える。
これだけきれいだと、人間じゃないらしいという噂も納得できた。滅多に表に姿をあらわさない、というところもより怪しさを助長している。まことしやかに『魔王』の名で呼ばれる帝国の皇帝は、謎につつまれた存在だ。
フランスは、しっかりときれいな魔王の顔を堪能し、何度か「あー、あー」と言って低い声を慣らしてから、鏡から目をはなし、となりにある窓をあけた。
朝の、しっとりとした真新しい空気が、頬をなでる。
夢にしては、ずいぶん、はっきりとしているのね、なにもかも。
匂いも、思考も、まるでいつも通りに思える。
「あ、せっかく男の姿になったのなら、気になっていたことを確かめられるわね」
いくつか、あるわよ。
まずは、重いもの。
本当に軽々持てるのかしら。
フランスはあたりを見わたした。
「それにしても、広い部屋ね。ベッドも十分に大きいのに、部屋が広すぎて小さく見えるわ」
部屋はゆったりとしたつくりで、窓側に天蓋付きのベッドがあり、中央には大きなテーブルと、これまた華美な装飾がほどこされた贅沢なつくりのチェアがある。
暖炉には、まだすこしの火が残っていた。
お、まずはこれよ。
華美な薪置きから、片手で大き目の薪をつかんで、暖炉の中に入れてみる。
おお、このサイズでも片手で持てちゃうんだ。
フランスは、楽しくなった。
次よ!
暖炉のそばに、異国のものらしい、不思議な模様の入ったツボがあった。腰ほどの高さもある大きなツボだ。
よしよし、いいわね。
これは、間違いなく、重いわよ。
わたしなら、腰を痛めるわ。
フランスは、腰を落として、抱きつくようにして、ツボを持ち上げた。
軽々と持ち上がる。
すごい! 楽しい!
よし。
次は、なにか破壊したいわ。
フランスは、きょろきょろとあたりを見回した。
暖炉からすこし離れた壁際に、つやつやと光るいかにも高級そうなサイドテーブルがある。その上に、美しいペンがひとつ置かれていた。
近寄って、手に取ってみる。
金まであしらわれた、石質の太いペンだ。持つと、ずっしりと重い。
いいわね。こんな高価そうなもの、現実ではぜったいに壊したくないし、今がチャンスよ。
フランスは、両手でペンのはしを持ち、えいやっと力をこめた。すこし力がいったが、ペンは硬質な音をたてて半分に折れた。
おおっ! 難なく破壊できる!
なんて爽快なの!
フランスは、無残な姿になったペンをサイドテーブルの上に戻して、考えた。
あと、確かめたいこと……、何かしら。
あ。あれよ。
そうそう、なんで一番に思いつかなかったのかしら。
もっとも、気になることなのに。
フランスは、部屋を見渡した。
あれを、試すのに、何か手頃なものはないかしら。
手でするのは嫌だわ。
たとえ夢だとしても。触れたくはない。
起きてすぐにのぞきこんでいた鏡台が目についた。鏡の前に置いてあるものに、目が行く。鏡台の上に、シンプルな燭台がひとつ置いてあった。
フランスは近寄って、手に取ってみる。
ふうん、これなら、ちょうどいいんじゃない?
鉄製ね。
ちょっと、重すぎるかしら。
いや、大丈夫よね。
フランスは、鏡を見つめて、にんまりした。
「本当に、股を打ったら痛いのか、実験してみましょう」




