第3章:「スパイス戦争と綾奈の涙」
「わぁっ!ちょっと、何を入れてるの、はるか!?」
菜々美の叫び声が厨房に響く。目の前で、はるかが無邪気な表情でスパイスをどっさりと鍋に投入しているところだ。
「え、だって、これだけじゃ味が決まらないでしょ?もう少し、あの赤いやつも、追加しようかな?」
はるかはすっかりスパイスの世界に引き込まれており、その感覚を止められなかった。唐辛子と黒胡椒を山ほど投入し、隠し味に“赤いヤツ”――ドラゴンの火粉まで使ってしまったのだ。
「はるか!それ、ドラゴンの火粉って、もう!魔界の超強力なスパイスだって言ってるでしょ!使う量がバカすぎる!お前、この店を爆破する気か!」
「爆破?え、何それ?そんなことするわけないじゃん、だって美味しいものを作りたいだけだし!」
菜々美は頭を抱えながらも、その無邪気さに呆れる。
「はるか、その味見もしてないでこんなに入れてどうするのよ!このスパイスの量、絶対に食べられないよ!」
「うるさいなー、ちょっと味を見ればわかるじゃん、あの赤いヤツの感じで!」
菜々美がそのスープを一口味見した。しばらく口の中で舌を転がし、まるで異世界の辛さが口内を駆け巡っているような感覚に襲われた。
「う、うーん……辛すぎる!これ、確実におかしくなってる!」
その様子を見守っていた綾奈が、少し遠慮がちに声をあげる。
「……菜々美さん、そのスープ、もしかして私が手伝いに入るべきだったのかもしれませんね」
綾奈は心配そうにそのスープを見つめ、心の中で少しずつ不安が膨らんでいた。綾奈はいつも冷静で、周囲の調和を大切にする性格だ。だが、料理に関してはどうしても自信が持てず、つい自分を犠牲にして周りに合わせてしまう。
「綾奈、気にしないで。はるかがこうやって料理を作ることには、意味があるから。心配しないで」
菜々美がそう言うと、綾奈は微笑んだが、その表情には不安の色が残っていた。少し、何かが引っかかるような気がしていた。
「でも……」
「大丈夫、私たちで何とかするわ」
菜々美がはるかに向き直り、笑顔で言った。しかし、その笑顔の裏には、実は少しの苛立ちが隠れていた。普段、しっかりとした自分を保っている菜々美も、はるかの無神経さには時々苛立ちを覚えていたのだ。
「結局どうするんだ、このスープ。味見してると、だんだん涙が出てきそうだぞ」
「いいじゃん、辛くてもなんでも!元気出るし!」
「……確かに、元気にはなるかも」
そのとき、ふと厨房の隅から声が聞こえた。
「ううう、なんか、急に涙が出てきたわ」
それは、綾奈だった。涙をぬぐいながらも、無理に笑顔を作っていた。
「綾奈!?どうしたの、そんなに辛いの?」
「いや……実は……スープ、あんまり得意じゃなくて……でも、みんなが頑張ってるから、ついつい我慢しちゃって」
綾奈の言葉に、はるかは驚いた顔をした。
「そんな……ごめん、綾奈。私、無理に頼んじゃった?」
「違うんです。私が……もっと頑張れば、きっと皆さんが納得してくれるんじゃないかって」
「綾奈……」
菜々美は一瞬、その姿に胸を痛めた。綾奈は、普段から誰かのために尽くしてばかりで、自分を犠牲にしてしまうことがよくある。でも、今回だけは、無理をしないでほしいと思った。
「綾奈、無理しなくていいんだよ」
菜々美は静かに言い、そしてスープの味見をもう一度してみた。その結果、少しずつ味が落ち着いてきたようだった。
「うーん、ちょっとだけ改善したかも……でも、まだ強烈に辛いわね。こんなに辛いスープ、初めてよ」
はるかが少し照れくさそうに言った。
「え、でもさ、誰かがこうして我慢して作ったんだから、まずは食べてみるべきじゃない?」
綾奈がそっと手を挙げた。
「私が食べてみます……少しだけ」
綾奈は小さな一口を飲み、そして顔をしかめた。
「辛いけど……なんだか、心が温かくなるような気がします。これは、きっと“思い”がこもった味なんですね」
その言葉を聞いた瞬間、菜々美とはるかはお互いに顔を見合わせた。
「じゃあ、続けるか……。このスープ、まだまだ改良の余地ありだね」
「うん、でも、何かしら心に残る味だわ。今度、ちょっとずつ改善していこう」
菜々美とはるかは、今度は心を一つにして、改良を試みることを決意した。
そして──味変食堂は、ますます賑やかで、少しずつ成長していくのだった。
(続く)