第1章:「開店!味変食堂としゃべるレシピ帳」
古書店の奥にある細長い階段を、まるでダンジョンを潜るかのように一歩一歩降りていくと、重たい扉の前に出る。その扉には、まるでおとぎ話のような筆致で書かれていた。
味変食堂──“その一皿、人生ごと変えてみせます。”
本当に営業してるのか、冗談じゃないか。客の大半はそう思ってドアノブに手をかける。だけど、勇気を出して一歩中へ入ると、鼻をくすぐる複雑で魅惑的な香りと、壁一面のスパイス瓶、そして──
「いらっしゃいませ。“今日の主役”はどなたですか?」
鼻声混じりで出迎えるのは、背筋がびしっと伸びた、無駄に姿勢のいい男。
板前でもなく、料理人でもなく、どこか軍人じみた堅さを感じるのが、この食堂の店主・優月である。
彼は皿の端の盛り付け角度ひとつにまでケチをつける、“細部の鬼”であり、
厨房では一切の冗談が通じない──はずだった。
その日、閉店間際の味変食堂に、ひとりの女が現れた。
ふわっとした栗色のウェーブヘアに、エプロンではなく画家のようなカフェエプロン。片手には画板。手にはなぜか、小さな塩の瓶。
彼女の名前は、菜々美。芸術家肌の料理研究家。…らしい。
「すみません、迷って入っちゃったんですけど……この香り、もしかしてクミン?それと…スターアニス?」
「違います、うちではその配合は使っていません。香りを嗅いで即座に混合比を断定するのは、プロのやることじゃない」
──それが、出会いの第一声だった。
「えー?面白いわね、じゃあこの甘ったるい匂いは……シナモンとカルダモン、それに……」
「お客様、注文されないのでしたら厨房への詮索はお控えください」
二人の間に走る静かな火花。
けれど、それがこの食堂に“味の変化”をもたらす始まりだった。
「店主さん。料理ってさ、見た目から始まるの。盛り付けが綺麗だったら、きっと味も美味しく感じる。そうでしょ?」
「そういう“雰囲気”に味覚が左右されるなら、その人の舌は信用に値しません」
「ははっ、じゃあ勝負してみる?あなたの“正しすぎる料理”と、私の“ちょっと変わった皿”、どっちが客の心をつかむか」
彼女の提案は、食堂を「二交代制」にすることだった。
昼は優月。夜は菜々美。
そして夜のメニューには、「異世界風味」なる胡散臭いジャンルがずらりと並ぶ。
スライムの煮凝り、火蜥蜴の炙り、空飛ぶ魚の干物。
その多くは、地下倉庫の奥にある冷蔵魔法箱から取り出される、“異世界仕込み”の食材だった。
「なんでこんなのが仕入れられるの?」
「説明すると長くなるし、話す気もありません」
「じゃあ勝手に描くわよ。物語にして」
菜々美は絵とレシピと物語を一緒に綴ることにした。
そして──ある日、厨房の引き出しから見つけたのが、例の『しゃべるレシピ帳』だった。
「……ん、ぐぉ……ひ、人間か……今日のスープは、胃腸に効くトカゲ草の煮込みがいいぞぉ……」
レシピ帳が、喋った。
「いやいや、喋るな。まず黙れ。誰だお前は」
「わたしは、レシピの精霊。レシピ本に長年染み込んだ“味の記憶”が、意志を持ったのじゃ」
「黙れ言うたやろ!!!!」
──優月の叫びが、厨房に響いた。
それからというもの、味変食堂の厨房では、人間とレシピ帳の口論が日常茶飯事になった。
「この分量はおかしい!塩の一摘みが“三本指”ってなんだ!」
「ふぉっふぉっふぉ、三本指の“機嫌”によるが正解じゃよ!手の温度、湿度、前夜の睡眠時間まで反映される──それが、真の“おばあちゃんレシピ”!」
「曖昧すぎるわ!」
「アジヘンじゃからな、曖昧が味なのじゃよ!」
──と、レシピ帳の言うことを一周回ってありがたがり始めたのが、はるかだった。
「このレシピ帳、いいわね。料理が私に話しかけてくる気がするの」
「いや、実際話しかけてきてるんだけどな……」
はるかは「料理には心が宿る」と信じて疑わないタイプで、調理中に『がんばれ、ニンジン』などと声をかける癖がある。無神経さの方向性がやや独特だが、味の勘だけはずば抜けていた。どんなスパイスも目分量で適量に落とす腕を持つが、その“適量”が人間の舌に合うかは別問題だった。
ある日のまかないで事件が起きた。
「う、うわあああああっ!?大雅、死ぬな!目を開けろ!」
「だ、大丈夫……だけど、喉から煙が……」
「ちょっと、何入れたの!?これはもう料理じゃない、兵器!」
「えー、パプリカとチリと、あと“赤いヤツ”……」
「“赤いヤツ”ってなに!?なんで容器にドクロマークついてるの!」
レシピ帳がぽつりと言った。
「それ、ドラゴンの舌先からとれた“赤舌粉”じゃの。魔界でしか育たぬ幻のスパイスじゃ。人間界で使うと、体温が3度上がるらしいの」
「病院送りだよ!」
厨房の阿鼻叫喚とは裏腹に、客席は連日満席だった。
異世界素材を使った料理に、近隣の大学生やインフルエンサーが目をつけ、SNSで拡散され始めたのだ。
特に人気を博したのが、“うまたまスープ定食”。
トカゲ草と塩干キノコを煮込んだダシに、半熟卵と“しゃべるトッピング”が載った一品で──
「スープがしゃべるってなにごと!?」
「“今日も一日がんばれ”って、ささやかれました……泣きそうです……」
と、思わぬ癒やし効果まで発揮していた。
「……なあ優月」
厨房の隅で、大雅がもごもごと言った。
「この店さ、すごいよな。お前のこだわりがあって、菜々美さんの変わり者っぷりがあって、はるかの野性があって──まとまらないのに、まとまってる」
「まとめる気もないし、統一感もない。だが……料理が“おいしい”と言われるなら、それでいい。今はな」
そのとき、厨房の奥で、再び例のレシピ帳がしゃべった。
「ふぉっふぉっふぉ、次は“伝説の隠し味”のページを開くときじゃな……そろそろ、味の扉を超える頃合いじゃろ」
「ちょっと待て、まだ開いてないのかその扉は……!」
──異世界食材、しゃべるレシピ、芸術家の女店主、曖昧なスパイス女、正論の鬼、そして優しすぎる常連たち。
味変食堂のドタバタは、まだ始まったばかり。
(第1章・了)