第九十九章 餓鬼の島・土の帝王、湯に沈む
氷華、落ちる音、
【吉原・高級個室サウナ 銀河、夜】
朱塗りの格子が薄ぼんやりと灯りに染まり、外界の喧騒などまるでなかったかのような静寂の中、熱気と艶笑が渦巻いていた。
館内奥。二十畳の大浴室。
何と銀河には、サービス用個室とは別に団体客用の大浴場が、三室用意されている。
そのうちの一室。
天井には惑星の名を冠した瑠璃色のクリスタルが嵌め込まれ、蒸気とともにゆらめく。
浴槽の湯は微かに金色がかり、贅を極めた香木と薬湯の香りが鼻をくすぐる。
十数名の男たち。いずれもJAS全農響の幹部連。
肩には立派すぎる刺青。腹は出ているが、口元は緩みきっていた。
「ヒッヒッヒッ……さすがに“銀河”だ、女の質がちがう! おい、誰があの巨乳姫を指名したァ!」
「総裁だよ、コブラの旦那! ひと声で三人連れてきたとか。いい身分だぜ」
「わっはっは、田畑で汗かいて働く連中には、こんな夢は見られねえってか!」
どぶり、と湯が揺れた。
岩風呂の中央、三尺四方の赤御影の腰掛けに、総裁、瘤羅 萬犀がどっかと腰を据えている。
裸。
背には見事な“畝蛇”の彫り物。
腹はたるみきっているが、腕と腿だけは異様に太く、力士か山賊のような肉付きだった。
その肉塊の頭上に設置された75インチの防水有機ELディスプレイ。
そこに映し出されていたのは、
DSPNチャンネル《The Last Flame》の第1戦。
ワジキ vs 種田守男の壮絶な闘いであった。
「おおぉっ、いった! いった! あの野郎、右だ、右ィッ!」
萬犀の野太い声が、湯気を震わせる。
「ワジキィィ! そうだそれでいいんだよコノヤロウ! ズルロイの戦士は伊達じゃねえ!」
肘掛けに置いた湯飲みに手を伸ばす。だがその中身は八海山の生原酒。
一口啜り、舌で転がす。
「くうぅ……これだ、これが生き血ってやつだ……!」
隣に侍る白衣のマッサージ嬢が、背中を滑らせている。
彼女が押すたびに、萬犀の肉がぷるぷると波打つ。
「この種田ってやつぁ、山田組のヒットマン十人殺ったって話だがな……見ろ、ワジキが笑ってやがる。笑って、ぶん殴ってんだよ」
湯船の縁に備えつけられたテレビの音量が、さらに一段階上がる。
実況の声が風呂場に響く。
「ワジキ、立ったァ! 種田の肘をすべらせて、今ッ! 後ろ回し蹴りィィッ!」
「わあっはっはっはっはッ!! 蹴ったァァッ! これだよ、これが喧嘩ってもんだッ!」
萬犀の湯がバシャリと弾け、他の幹部たちがびくつく。
彼らは皆、萬犀が機嫌よく湯に浸かっている間だけが「命の保証された時間」だと理解している。
「ワジキィィ……お前ぁ、俺の、血の味がわかる男だ……。今度、野菜ブランドでCMでも出しちゃる……そうだ、《土と肉》とかって名前でな……っぐふぅ!」
「わあっはっはっはっはっ! これだァ……これがァ……! 血が、鳴くッ!」
萬犀が立ち上がった瞬間、湯が盛大にあふれた。
その背中には畝を走る蛇の刺青。そして、白衣の女の手が、背筋を撫でている。
年齢不詳、無表情、だが異様に整った肢体。白磁のような肌、冷たい指先が、ゆっくりとコブラの背筋をなぞっていた。
まさかこの直後、彼がの棘によって命を絶たれるとは、このとき誰も知らなかった。
ふいに、萬犀の背筋に走る冷たいもの。
嬢の指が、いつになく冷たい。
萬犀は思った。
「……ん? なんで……こんなに……」
「……ふ、指が冷てえな。だが、それもまた、乙なもんだ」
湯煙の中、晶華の唇が微かに動いた。
「氷の国では、温もりは命取りなのよ」
「は?」
次の瞬間、女の指が刃に変わった。
氷のごとき透明な細身の刃が、蒸気を裂いて閃いた。
頸筋に走った白線のあと、瘤羅萬犀の太い首が、のけ反るようにひん曲がった、喉から迸るのは鮮血。
誰よりも豪胆だった土の帝王は、音もなく崩れおちた。
「…………」
浴室の喧騒が一瞬にして凍りつく。
「総裁……? な、なんだよこれ、冗談だろ……?」
誰かが叫ぼうとしたが、その声すら湯気に呑まれた。
晶華はすでに、湯に浮かぶ薄布のように、蒸気の向こうに姿を溶かしていた。
「ミッション完了、ジェットヘリを迎えにちょうだい。私がクイーンマザーに帰らないと、ショウが始まらないわ」
囁くように残したその声だけが、氷の刃のように空間に刺さっていた。
──氷艶妃・晶華、邪馬統八傑衆の一人、氷の暗殺者。
それは、虎ノ門ゲーレンタワーを襲撃したことに対するハーヴェスターの報復。
その一刺しは、農の巨頭を凍てつかせ、国家をも震撼させる、戦の始まりだった。




