第九十八章 餓鬼の島・「蒼刃の美姫、現る」
トレーニングマットの上で、牙王と鴉皇は無言のままビールの瓶を転がしていた。
汗にまみれた身体に、微かに冷気が触れた気がした。
ただの換気ではない。
空気そのものが、色を変える。空気の"位階"が下がるのを、獣たちは本能で感じ取った。
カツ、カツ、カツ……。
足音が響く。
ヒールの音。乾いた床に吸い込まれるような歩み。
振り向くまでもなかった。
その気配だけで、誰が来たかが分かる。
──冥華。
邪馬統の蒼刃姫。神勅の会の血剣。
扉の向こう、照明の下に立ったその女は、戦場の女王だった。
銀と藍で彩られた軽戦装束。
前線用ではない。あくまで"観戦と威圧"の装い。
だが、彼女が本気を出すときは、何を着ていても殺すだけだ。
鋭利な眼差しが、牙王と鴉皇を見下ろす。
「──楽しい余興ね。随分と血の匂いがするわ」
牙王が笑う。
「野良犬どもが俺たちに吠えかかったんでな。しつけの時間だった」
冥華は一歩前へ。
つま先で、床に転がった空薬莢を踏み砕く。
「その"しつけ"、やりすぎてないかしら?無駄に殺したら、訓練費が嵩むのよ」
鴉皇がぼそりと呟く。
「殺してない。全員、生きてる。鳴かなくなっただけだ」
冥華の目がわずかに細くなった。
「……そう。なら、結構。ただし、次に赫の娘が現れたときは、"躾"で済むと思わないことね」
空気が張り詰めた。
牙王が瓶を傾け、喉を鳴らして言う。
「お前も、気にしてるのか。"赫骸"の動き」
「気にするわけがないでしょ。──ただ、"面白くなってきた"だけ」
その瞬間、冥華の背中で蒼刃の気流がわずかにうねった。
鴉皇の影が反応した。
牙王の毛髪が逆立った。
殺意だ。
わずか一瞬の。
だが、完璧な"間合い殺し"だった。
冥華は微笑を浮かべた。
「次にあの赫の亡霊が暴れる時……、観戦席で静かに座ってられるかしらね、貴方たち」
そう言い残すと、背を向けて去る。
香のような気配だけを残して。
彼女が出ていった後、しばしの沈黙が落ちた。
やがて牙王が笑った。
「やっぱり……あいつも獣だな」
鴉皇も短く、低く笑った。
「いずれ、あの刃も血に飢える。俺たちと同じようにな」
ご希望があれば、この後の冥華単独視点(ワジキへの関心、源治との会話、赫の血への衝動)などへ繋げていくことも可能です。さらに進めますか?
牙王が瓶を振り、空になったそれを壁に投げた。
カランという乾いた音が響いた。
「なあ、冥華」
「……なに?」
「俺と子供、作らねえか?」
その場の空気が一瞬凍った。
鴉皇が動かなかったのは、興味がないからか、それとも警戒からか。
冥華が眉ひとつ動かさず、牙王を見た。
「ふざけてるの?」
「いや、けっこう真面目だぜ?」
牙王は笑う。だが、その目の奥にあったのは、"実戦"の輝きだった。
「お前の蒼刃と、俺の金狼。そこに赫の因子が混ざればよ──
すげえ餓鬼ができるぜ。殺しも政治も両方いける最終兵器だ」
「……赫の血を持った子は、不幸になるだけよ」
冥華の声は冷たかった。だが、その奥には明確な"記憶"が潜んでいた。
「それを、私たちは身をもって知っているはず」
牙王は一拍置いて肩をすくめた。
「知ってるさ。だからこそのジョークだろ」
「ジョークなら、もう少し面白いのにして」
冥華が背を向けた。
「私はね、牙王。赫い血は見るだけで充分なの。混ぜようなんて、思ったこともない」
その言葉には、重さがあった。
赫と蒼は混ざらない。
混ざればどちらかが壊れる。
それを誰よりも理解しているからこそ、冥華は赫の娘・遥にこだわり続ける。
鴉皇が静かに言った。
「赫い血は、誰かが代償を払う。
それを抱く者も、生む者も、殺す者もだ」
冥華は立ち去り際、足を止めずに言葉を落とした。
「私は、"赫"を殺し、"赫"に殺されるつもりで生きているの。生かす未来なんて、想像したこともないわ」
そして──
訓練室から、その姿が静かに消えた。
牙王は苦笑いを浮かべた。
「やっぱり俺の好みだ。救いのない女ってのは」
鴉皇が呟いた。
「……救えない女、だろ」
二人は、冷めかけた汗の匂いとともに、黙ってベンチに腰を下ろした。
どこかで、再び赫の鼓動が、遠く鳴っていた。




