第九十六章 餓鬼の島・忌まわしき記憶
「皆様ご注目ッ!“THE LAST FLAME”開幕戦を飾る、今宵のマッチは──ッ!」
叫びと共に、天井のライトが一斉にリングに集中した。
「ラストマン・スタンディング・マッチ形式で行われます!!」
場内が一瞬、静寂に飲み込まれた。
「ルールはただ一つ。“最後まで立っていた者が勝者”ッ!!」
「10カウント以内に立てなければ敗北。タップも、レフェリーも──この闘技場には存在しないッ!!」
「ロープブレイクも、逃げ場も……この戦場には不要だッ!!」
轟音のような歓声が吹き荒れる。誰もが、血と赫の炎を待ちわびていた。
最初に動いたのは、種田だった。
「チッ……」
短く舌を打つや、まるで銃弾のように前へ出る。
蹴り上げる右足が、リングマットを撥ねた。
重い。速い。殺意が、間合いごと切り裂いてくる。
拳が閃いた。
空気が撓む。風圧でワジキの髪が揺れた。
が──肉体は、動かなかった。
いや、“動く必要がなかった”。
種田の拳がワジキの顔面に届く刹那、
ギチギチと軋む音とともに、赫の左腕が“展開”した。
まるで鉄の鎧のように変質したその腕が、拳を受け止め、咀嚼するように、包むように、“喰らった”。
「が……ぁっ!!?」
種田の手首が粉砕された。拳の骨が、軋んだ赫の殻の中で潰れた。
反射で後退しようとするその肉体を、ワジキは逃さない。
赫化した左腕が、蛇のように螺旋を描いて、肘から刃を形成していた。
赫鎧突。
裂ける空気の音とともに、骨の槍が、種田の腹部を貫いた。
「グ……ア……ッ!!」
叫びは出ない。肺が押し潰される。
血が噴き出される。リングに血の飛沫が飛ぶ。
観客が息を呑む──遅れて沸き起こる、爆発のような歓声。
しかし、ワジキは、それに答えない。
冷たい。
感情そのものがないのだ。
赫の槍を引き抜く。
裂けた肉と砕けた骨が、リング上に音を立てて落ちる。
倒れる──と思ったその瞬間。
種田は、咆哮した。
「まだ終わってねええッ!!」
気合いではない。殺意だ。
噴き上がる血とともに、倒れかけた身体が跳ねた。
ナイフだ。足首に隠していた刃が、ワジキの首へと閃く。
「死ねェェェェェ!!!」
鋭い。だが遅い。
ワジキの動きは、“音”すらなかった。
赫殻が膨張し、肩から赫の突起が伸びた。
──赫刺封。
赫の棘が空間を突き破り、種田の喉元を貫いた。
刃が振り切られる前に、彼の戦闘は、終わった。
倒れる肉体。
膝をつき、そして崩れる。
カウントなど、無意味だった。
誰もが理解していた。
あれは“試合”ではない。
“処刑”だった。
ワジキは立っていた。
冷えた赫い肉体が、静かに脈動する。
戦いのあとに、感情も、咆哮も、勝者の笑みもなかった。
あるのは──
「死の静寂」
ひとえにそれだけだった。
血の蒸気が、リングを濁している。
歓声は遠い。
光も、意味をなさない。
骨の震えだけが、ワジキに現実を伝えていた。
倒れ伏した種田守男。
生の炎を喰い尽くされた肉体。
ワジキは見ていた。だが、理解していなかった。
自分が勝ったのか。
自分が殺したのか。
そのどちらにも、感情が湧かない。
だが――その時だった。
“兄ちゃん、怖い夢、見たの……”
耳の奥。
いや、どこか記憶の奥底で。
確かに聞こえた気がした。
「……誰だ」
呟いた声は、誰にも届かない。
そもそも、ワジキ自身にも届いていなかった。
声とともに、像が揺れる。
光の中、焼け焦げた部屋。
鉄の匂い。煤の味。
燃えさしの敷布にうずくまる、幼い少女の影。
何度も見た夢。
いや、“それ”を夢と呼んでよいのかも分からない。
“兄ちゃん、わたし、まだ……死にたくない……”
赫の細胞が悲鳴を上げる。
彼の神経に、拒絶反応のような疼きが走る。
ワジキは顔を上げた。
観客の歓声は熱狂へと変わっていた。
だが、それは彼にとって、何の意味もなかった。
この世界は音を立てて燃えている。
火は歓声を喰らい、肉体を焼き尽くす。
それでも、あの声だけは焼き尽くせない。
ワジキは再び無表情に戻る。
赫の骨は収束し、赫骸は沈黙へと帰っていく。
だが確かに、彼の中で何かが始まっていた。
それが“覚醒”と呼ばれるものか、
あるいは“拒絶反応”という名の死か──
誰にも、まだ分からない。
ただ一つ、明確なことがある。
ワジキは、忘れかけていた過去の悪夢を思い出してしまった。
それが、何よりも恐ろしい。




