第九十一章 餓鬼の島・事業凍結命令
1
夜の帳が降りた頃、古びた能舞台の地下にある神勅の内殿。
わずかに明かりを灯す香炉の煙の中、陣幕源治が姿を現す。
足音ひとつすら、重みを持つ。
冥影はすでにその場に平伏していた。漆黒の法衣が畳を這い、額は床に触れている。
「冥影」
その一言だけで、場の空気が凍る。冥影の肩が小さく震えた。
だがその震えは、寒さではない。
権威に叩き伏せられる犬のような震えだった。
「先ほど、国家公安委員長から密告があった……。おぬし等、麻薬事業がらみで、少々騒ぎを起こしているらしいが……心当たりはないか?」
冥影の貌が一瞬、歪んだ。
その次の瞬間、雷鳴のような罵声が地下殿に響き渡る。
「貴様……っ!麻優たちが、 官憲の犬どもに嗅ぎ回られていることすら把握していなかったのか!? 何のために貴様を置いていると思っているッ!」
源治の靴音が一歩、また一歩と冥影に近づくたびに、その怒気が空間を圧迫する。
「神崎涼……その名を知らぬとは言わせんぞ。高跳びしてCIAに逃げ込んだというあの男はすでに、麻優の工場にも足を踏み入れていたと、昨夜、“別口”から耳打ちされた。なんと笑える話だ……貴様の組織は、とうにザルも同然ということだッ!!」
冥影は畳に額を擦りつけるように深く伏せる。
「し、失念、いたしておりました……源治様……この冥影の至らぬ指揮のもと、貴き神勅の威光に泥を塗るような真似……言い訳の余地もございませぬ……!」
「当然じゃッ!!」
源治は冥影の顔の横に足を突き立てる。畳がきしみ、香の煙が乱れる。
「AZコネクションの流通はすぐに凍結しろ。製造ラインも焼き払え。証拠が一つでも残れば、次に嗅ぎ回るのは国政の監査だ。誰が尻を拭うと思っている?」
「す、すぐに麻優に通達を……いえ、私めの手で、直接麻優を諫めてご覧に入れます……!」
「麻優と共に小銭を稼いでいるのは、 牙王あたりであろう。牙王達が聞く耳を持つとは思えんがな。あの獣めが。だが……お前が抑えねば、それこそ“赫の血”を狙う我らの布陣が崩れる。できるのか、冥影……貴様に、それが」
冥影は全身を震わせながら、顔を上げ、口元に血のにじむほど噛み締めて呟く。
「できます……できますとも、源治様……たとえ麻優、牙王の喉をこの手で食い破ることになろうとも、貴方様のご命令とあらば……この冥影、命を投げ捨てて果たしてみせます……!」
源治はしばし無言だった。
そして、嘲るように吐き捨てる。
「せいぜいその身が使いものになるうちにな。赫の一族を狩る前に、無能の烙印を押されぬようにな、冥影」
冥影は声を出さずに嗤った。畳に伏せた顔の奥、その魔眼だけが、ぞっとするような光を放っていた。
2
牙王のオーナー企業の一つ、ガルドラ商会。
港区・南青山ヒルズ最上58階のラウンジ。ガラス越しに都心の光が下界に瞬いている。
琥珀色の酒を揺らしながら、牙王は部下の報告を受けていた。
「……冥影の使いが来ました。AZコネクションから依頼されたヤクの製造、流通は、すぐに止めろと。AZのボスの梓沢麻優はさっさと見切りをつけて、巫女装束に服を着替えたそうです……」
牙王は鼻で笑った。酒を一口、喉に流し込む。
「あの禿頭の呪術屋が、吠えるたびに尻尾を巻いてたら、俺の牙はいつ折れるんだ?」
豪奢な革張りソファにふんぞり返り、部下の若い幹部に目をやる。
「警察が近いらしいっす。倉沢って刑事、牙王さんの古いルートも嗅いでるって──」
「ふん。警察? 官憲? そんなもん、いくらでも金で黙らせてきたろうが。口を開けば“統制課”だの“監視網”だの、冥影どもの亡霊遊びに付き合う義理はねぇよ」
牙王は指先で机を叩いた。
部下の背後で、黒いスーツを着た用心棒たちが一斉に気を引き締める。
「……トリスタン製薬の第七製薬工場と、第九輸送ルート。あれは稼働を続けろ」
「し、しかし牙王さん……冥影様に逆らえば──」
「あの男の呪詛が俺の肉体を止められると思うか? 冗談もほどほどにしとけや」
そのとき、牙王の全身が金色のうねりに包まれ、彼の背後に一瞬だけ“獣”の気配が現れた。
「“金狼侯・牙王”と呼ばれるこの俺の牙は、誰の命令でも抜けやしねぇ。俺の縄張りの血と肉を切り離されてたまるか」
牙王は低く唸った。
「冥影に言っとけ。“牙王は従う”ってな。だが……その舌の根が乾かぬうちに、この牙で首筋に喰らいついてるかもしれん、とな」
部下が黙って頭を下げる。
「それで……“実験用”の新型AZ、サンプルロットは闇市場へ回せ。戦地帰りの兵どもに試してもらえ。陣幕のオヤジにばれねえ程度にやれ」
牙王の口元が吊り上がる。
「赫の一族がどうだの、覚醒者がどうだの……そんな神話、俺の財布の中にはねぇ」
「俺が信じるのは、喰うか、喰われるか。それだけだしな」
東京の夜に、獣の咆哮が響く。




