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第九章 赫の芽吹き・狂乱

1


 埃臭いアパートの一室で、佐山敏也は目を覚ました。


 寝汗でシャツが背中にぺったりと貼りつき、体液が乾いた後の斑紋があちこちに染み付いた汚い煎餅布団の上に転がった銀の玉が、西陽を受けて鈍く輝いている。


 日焼けして、爛れ擦り切れた畳の表面を無意識に弄りながらしばらく、ぼんやりと埃が(たか)った天井を見つめていた。


 クロゴキブリが天井の埃を喰っている。


「落ちてくんじゃねーぞ」


 ぽつりと呟く。


 糞蠅(くそばえ)の羽音が聞こえる。


 昨日の記憶が、じわじわと蘇る。


 ――そうだ。


 佐山は寝返りを打ち、隣に積まれた数箱のドル箱を見た。


 それは彼にとって、これまで、一生涯に獲得した数少ない勝利の証であり、また、破滅の始まりのしるしでもあった。


 昨日、正午過ぎ。


 渋谷の街は、いつも通りの雑踏に包まれていた。


 昼休みを楽しむ会社員たち、インバウンドの観光客の一団、制服姿の学生たち。


 その中を、佐山敏也は所在なげに歩いていた。


 佐山敏也、二十二歳。


 一ヶ月前まではヌーバーイートD.S.(デリバリーサービス)の配達員だった。


 だが、配達中に客の寿司に手を付けて、つまみ食いをしたのがバレて、あっさり(クビ)になった。


 それからは、職種を問わず応募したどの求人面接からも落ち続けた。


 手癖の悪い男は何処も雇わない。


 今、現在、彼に残された選択肢は、運に(すが)ることだけだった。


 無言で駅前の遊技場『パラダイスバレー渋谷ハチ公口前店』に吸い込まれていった。


 神に見放されたような負け続きの日々。


 ポケットには、かろうじて残った百円玉が一枚。


 それをまさぐり出し、硬貨の冷たさを指先で確かめた。


 借り出した二十五個の銀の玉に、人生最後の望みを賭けて、最後の賭けに出る。


 だが、玉は無情にも次々と呑まれてゆき、最後の一球だけが残った。


「……たのんます」


 佐山は、小さな声で祈った。


 その願いも虚しく、最後の玉はあっけなく外れ穴へ吸い込まれた。


 ――終わっちまったよ。


 そう思った、その瞬間だった。


 ゴオオオオ――。


 不意に、空気が軋むような異音が店内を満たした。


 天井の照明がバチバチと明滅し、空間全体が震える。


 辺りを見回す客たちの顔に、戸惑いと不安が浮かんだ。


 次の瞬間――。


 店内全台のパチンコ液晶画面が、狂ったような速度で回転を始めた。


 リーチ音がけたたましく鳴り響き、スロットが止まると、全ての台で大当たりが炸裂した。


 ファンファーレの爆音。


 銀玉の洪水。


「すげえ!全部出てるー!!」

「やったあああ!!!いっけえぇ!!!」


 客たちは歓声を上げ、台にしがみつき、銀玉を必死にかき集めた。


 床には玉が溢れ、通路を覆うほどだった。


 佐山は、呆然として、目の前の光景を見つめた。


 これは神の祝福か。はたまた、悪い冗談ジョークなのか。


 だが――。


「お客様、事故です!機械の故障です!安全確保のため、ただちに遊技の手を一時停止してホール係の指示に従って下さぁい!」


 マイク越しに店員の叫ぶ声が容赦なく響く。


 溢れ出た玉の強奪を防ぐために、慌てて通路を封鎖しようとするホール係の店員たち。


 しかし、客たちは聞く耳を持たない。


「ふざけんな!出るもん出てんだろ!」


「俺の玉だ、金返せ!!」


 怒号。


 もみ合い。


 床に撒き散らされた銀玉が、靴の下でジャリジャリと音をたてる。


 店員と客が入り乱れ、取っ組み合いがあちこちで起きる。


 警備員にも、もはや制御不能だった。


 佐山は、無意識に玉をかき集めたドル箱を抱え、必死で計数機を置いてあるカウンターを目指した。


 だが、カウンター前ではもうあちこちで小競り合いが勃発していた。


 殴り合い。


 倒れる客。


 銀玉の奔流に滑って転ぶ者たち。


 とてもカウンターには近づけない。


「……たのんます」


 またしても佐山は心の中で祈った。


 神は確かに祈りに応えた。


 だがもたらされたそれは、単なる祝福ではなく――狂乱をも孕んでいた。


 佐山はドル箱を抱えたまま、意を決して、怒号と暴力が大渦を巻く奔流に突っ込んでいった。


  2

 

 そして今日。


 汚れた煎餅布団の脇には、昨日、命がけで携えてきた戦利品が積まれている。


 西陽に照らされて、静かに、鈍く輝いている。


「……勝った、んだよな」


 呟く。


 ゆっくりと起き上がってリュックに玉を詰め直し、佐山は玄関へ向かった。


 こいつを換金すれば、まだやり直せる。


 そう信じていた。


 ドアノブに手をかけた、その時。


 ドンドンドン――!


「警察だぁ!開けろ!」


 佐山の心臓が凍りついた。


 次いで怒号。


 ドアが蹴破られ、制服姿の警官たちが踏み込んできた。


 佐山は咄嗟にリュックを背後に隠した。


「な、なんすか!オレ、何もしてねえっすよ!」


 必死にしらばくれる。


 だが、床に零れ落ちた銀の玉が、すべてを物語っていた。


「店員が見てたんだよ。お前さん、かき集めた玉を抱えて逃げてたってな」


 警官の静かな声が、耳を突き刺した。


「ち、違う!拾っただけだって!」


 佐山の言い訳は、あまりにも虚しかった。


「アホか、それこそ立派な窃盗だわ」


 逮捕状を読まれ、手錠が、ガチャリと冷たく佐山の手首を締めつける。


 さらに腰縄がうたれ、彼は完全に拘束された。


「う、うそだろ……」


 力なくつぶやきながら、佐山は引き立てられた。


 腰縄を握った警官に頭を小突かれながらアパートの階段を下りる。


 他所の部屋の住民たちの蔑んだ視線が背中に情け容赦なく突き刺さる。


 どこかでカラスが一声、哀しげに鳴いた。


 曇天の下、佐山敏也は、祈りと狂乱の果てに、静かに沈んでいった。

 

 孟谷勲は遥に語った。


「斎が巻き起こした磁気嵐による人的被害は、奇跡的に軽微で済んだらしい」


 だが、佐山のように、希望の骸を抱いたまま沈んでいった者たちが、

 磁気嵐に見舞われたこの日、都心のあちこちで、確かに存在していたのだった。


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