第八十七章 餓鬼の島・陰に生きる
警視庁の資料室。
1
データの光の渦が画面に流れる、倉沢美月はひとり、神崎涼の死亡記録を凝視していた。
「……死んだ?」
彼女の声は、誰にも向けられていない。
だがその眼差しは、すでに"疑い"を確信に変え始めていた。
死亡:神崎涼
――死亡時刻:令和2年7月1日午前3時12分
――死因:心停止(死某原因不詳)
――遺体:東京湾にて漂流中を発見される。
――記録署名:TOKIO SHIBUYA,Ph.D,M.D.,
美月は机の上に、何枚もの画像を並べた。
・神崎のパスポート履歴(抹消)
・成田空港の夜間保安録画――3月14日未明、顔を隠した人物がVIP動線を利用して出国
・特殊外交旅券のスキャンデータ――記名:A.L. Kurokawa
・手配書:アジア地区にてCIAスカウト対象"特殊言語認知者・無所属"
「……まさか、あなた……CIAに拾われたの?」
美月の指が、モニターに映し出された"イスタンブール経由・レイキャビク行き"の航空券を示す。
その予約者のハンドルネームは、"BlackPharm_R".
「自分の死を偽装し、過去をすべて焼き払ったうえで、国外諜報機関に合流……。あなた、一体どこまで未来を読んでたのよ、神崎さん……」
誰も答えない。だが確信はあった。
AZコネクションと、警視庁のはざまで死を演じた男は、社会的には消えたかもしれない。
だが――まだ生きている。
「彼は何をしようとしてるのかしら……?」 彼女はUSBメモリを手に取った。
2
場所は、地図に存在しない砂漠の地下施設。
特殊放射線照射による自動除菌ゲート、隔離されたコンクリートの長廊下。
その奥の面会室に、二人の男が対峙していた。
一人は、神崎 涼。
もう一人は、アメリカ国務省記録上は“死亡”しているCIAリクルーター、アシュトン・マードック。
金縁の眼鏡、神経質な指先、だがその視線は蛇のように鋭い。
「君の設計した《赤焔種》――面白い。従来のカンナビノイド受容体だけでなく、他の中枢を可塑化し、記憶の再構成を促す。これは化学兵器じゃない。……“再教育装置”だ」
神崎は返さなかった。
アシュトンは静かに、茶封筒をテーブルに置く。
「アイスランドの新ID。名前は“A.L. Kurokawa”。指紋・虹彩・音声すべて書き換えてある。それと、イミグレを通さず入国できる多重外交旅券。ついでに、米国での“永住権”だ」
「……つまり、お前らは俺を囲い込む気か」
アシュトンが、口角を吊り上げた。
「違うな。“自由”をやる。だが、その自由は“監視されないこと”ではない。“未来の設計に加われる自由”だ」
神崎は目を伏せ、短く息をついた。
「……わかった。条件がある」
「言ってみろ」
「俺が持つ“赤焔種”のゲノムコードは、完全な形では渡せない。 一部は俺の記憶に埋め込んだままだ。それを引き出すには、ある要素が必要だ」
アシュトンが眉をひそめた。
「つまり、君しかその“鍵”を開けられない、と」
「そうだ。必要な時が来るまで、俺は“記録されない人間”として動く。それが嫌なら、ここで殺せ」
数秒の沈黙。
やがて、アシュトンは淡く笑った。
「歓迎するよ、“BlackPharm_R”。
君のような亡霊こそ、我々には必要だ」
握手はなかった。
だが、この瞬間に非公式な密約が交わされた。
神崎は“国家に属さないヘルスエンジニア”として、影に生きることを選んだのだった。




