第八十二章 餓鬼の島・裏切りの街角
夜の街は湿気を含んでいた。
西池袋の裏手、駅からわずか五分の距離にあるバー〈ターミナル13〉の中。
看板もネオンもない。外壁は灰色に煤け、扉の重さだけが場末の常連を選り分ける店。
瀬尾は、カウンターにすわっていた。
喉元の皺が目立ち始めたが、目だけはまだ死んでいなかった。
その目の前に、今井がいた。若い。頭は切れる。
ずっと“右腕”として動いていた男だった。
「……ネウルダが潰れた。アスマンは、成田で肉の塊になったらしいな」
今井はグラスを傾けると、静かに微笑んだ。
「ええ。桐島とロシア人に皆殺しにされたとか」
瀬尾は琥珀色のウイスキーの底を見つめた。
「これから、麻優と桐島がまた、元の鞘に戻ると思うか?」
今井は、まるで猫が背伸びをするような動きで笑った。
「表向きはそうだとしても結局は無理でしょう、桐島はAZからの麻薬供給が断たれると、顧客に回すヤクが足りなくなり、商売にかなりの影響がでます。しかし一度顔に泥を塗られた手前、何らかの条件を付けてくるはず。殊に麻優の信用はがた落ちになった今、取引の責任者に、瀬尾リーダーを指名してくるはずですよ」
「それには、期待しているのだが……、妙に変だ。桐島から御指名がまったくかからねえ……」
「神崎は、どういってました?」
「……ネウルダがつぶれてから、神崎も消えた。奴とも連絡がとれねえ」
「神崎に踊らされてたんでしょうかねえ?」
「そうだとしたら、許せねえな……」
瀬尾は短くそう言って、グラスの底を舐めた。
そのままゆっくりと立ち上がる。
「……トイレに行ってくる」
「どうぞ。俺も、少し風を吸ってきます」
今井は背を向け、入口へ向かう。
その足取りは自信に満ち、そして――油断していた。
瀬尾が腰を浮かせるより早く、バーの扉が“音もなく”開いた。
今井と入れ替わりに無音の動きで滑り込んできたふたりの影。
黒田鎮馬。芦名沙夜。
ただ一歩、瀬尾の背後に立ち、
次の瞬間、冷たい刃のような金属の輪が、首筋にあてられた。
「動くな」
低い声。
命令ではなかった。通告だった。
桐島に送り付けられた写真を瀬尾の目の前に広げた。
「俺たちを裏切ったな……」
瀬尾は、短く息を吐いた。
「とんだ御指名がかかってきやがったか、くそっ、神崎の奴め……」
黒田は無言で瀬尾の片腕を捻った。骨が軋む音がする。
芦名は素早く椅子を蹴り飛ばし、背中を押すように瀬尾を立たせる。
「車は?」
「外。黒塗りのベントレー。ナンバーは桐島本社で偽装しました」
「運転手は?」
「……誰も乗っていません。自動運転です」
「完璧だ」
黒田は短く頷いた。
瀬尾の両腕は既に黒田の手で固定されていた。
芦名は足音ひとつ立てずにバーのドアを開く。
外の空気は冷たい。
通りには人影もない。
ベントレーのドアが自動で開いた。
瀬尾は、振り返らなかった。
「連れの男は……?」
「さきほど、手下が“処理”しました。遺体は荷室の中です」
「……そうか」
瀬尾はただ一度、目を閉じた。
その顔に、恐怖はなかった。
黒塗りのベントレーが、帝都の夜を、無音で走る。
後部座席に押し込められた瀬尾は、窓の外を眺めていた。
ライトが流れる。誰も知らぬ処刑の檻が、いま走っている。
芦名は、スマートフォンでどこかへ報告を入れていた。
黒田は静かに、ナイフを磨いていた。
瀬尾は、ただ口の中で、言葉を呟いた。
「神崎……、次はお前だよ」




