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第八十章 餓鬼の島・血の叫び

 帝都・六本木ナマズビル、「GULF TOWER」17階。


 豪奢なシャンデリアと、仮面に隠された投資家たちの笑い声が、虚飾の匂いと共に会場を包んでいた。


 汎太平洋仮想通貨セミナー仮面舞踏会――そう銘打たれたこの宴は、表向きこそ技術革新の社交場だったが、実態はネウルダの"暗黒資産換金の中枢部"である。


 クルドの錬金術師と呼ばれた女王、アマル・シャビーンが、場の空気を完全に支配していた。


 彼女は艶やかなスカーフを喉元に巻き、ベルベットのロングドレスを揺らしながら、会場の男たちの注目を一身に集めていた。


 そこに――ひとりの女がいた。


 控えめな仮面。


 控えめなドレス。


 だがその所作には、張りつめた氷のような沈黙があった。


 芦名沙夜。


 "針"と呼ばれる、桐島の私兵にして、帝都の夜に死を運ぶ者。


 沙夜は、化粧ポーチに手を伸ばす。


 掌に収まるほどの冷却カプセルの内には、皮膚吸収型の特殊神経毒"レムナントD"。


 無臭・無味、体表から浸透し、心臓のβ1、β2受容体を僅か3秒で破壊する。


 ワイングラス。


 アマルが一度だけ置いた、黄金のステム付きクリスタル。


 沙夜は何事もない顔で、音を立てずに近づき、指先でその縁を撫でた。


 カプセルから絞った液は、一滴すら落ちず、ただ"触れた"。


 数分後。


 アマルは笑いながら、再びそのグラスを手に取った。


 指が触れた――それだけで十分だった。


 アマルの目が、ふと泳ぐ。


 軽い咳。心臓の鼓動が断たれる。次の瞬間、彼女は何の叫びも発さず、静かにその場に崩れ落ちた。


 会場が騒然とする。


 だが、白衣を纏い、医師に化けた手下が最初に駆け寄り、診断を下す。


「心筋梗塞の既往があったと病歴が記録されてます。……心肺完全停止。処置不能です」


 レムナントDの毒の痕跡は一切出ない。


 そのまま沙夜は、何事もなかったように立ち去る。


 高層階のエレベーターに乗り、夜景の灯を背にした彼女の背中に、誰も気づかない。



 数時間後、川端本郷・ネウルダ地下拠点


 アスマン・ザルフは無言だった。


 言葉など、出るはずもなかった。


 眼前にあった冷蔵キャビネットに、肘を叩き込んだ。


 ガシャン、と鋭い音。


 強化ガラスが砕け、無数の破片が床に散った。


 氷のようなガラス片に、ワインがこぼれる。


 赤黒く濁った酒が、床のヒビを辿って広がっていく。


 その匂いが、今の彼には血のように感じられた。


 背後では、部下たちの声が途切れていた。


 通信機器のノイズ。


 一人、また一人、応答を絶った。


 部屋の壁面ディスプレイに映るのは、


 無機質な金融プラットフォーム。


 その画面上に、真紅のERRORコードが次々と点滅を始めた。


 赤い。


 血だ。


 まるで、死んだ兵士たちの名簿のように。


 アスマンは端末を掴んだ。


 握った拳に、老いた骨が軋んだ。


 爪が割れ、血が滲む。


 それでも、彼は手を離さなかった。


 画面を睨む瞳の奥にあったのは――焦りでも怒りでもない。


 喪失。


 やられた。


 あの女が。


 アマルが、


 義妹が、


 唯一、心を預けられた"部下"でなく"家族"が――


 殺られた。


 その死が、桐島に"静かに処理された"という現実。


 アスマンは、歯を食いしばった。


 くぐもった声で、吐くように呟いた。


「……アマルが……やられた……」


 そして、拳が机を殴った。


「……桐島……ッ!!」


 低く、喉を裂くような声だった。


 怒鳴るわけでもない。


 泣くでもない。


 ただ、男の胸の奥から溢れた、濁った毒だ。


 そして――笑った。


 いや、口が歪んだだけかもしれない。


 その顔はもう、戦略家のものではなかった。


 計算ではなく、復讐に喰われた獣の貌だった。


 胸を焼いたのは、怒りだけではない。


 狂気。


 赤く滲んだ視界の中で、血を吐くように叫んだ、


「桐島を殺れ。すべてを破壊しろッ!!」


 鋭い号令が空気を裂いた。


 戦いは、すでに"血で払うべき段階"に入っていた。


 闇に散った毒の契りは、今、確かな刃となって帝都を裂こうとしていた。

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