第八章 赫の芽吹き・博士
軽いノックの音に、遥は顔を上げた。
「遥様、失礼いたします」
静かに扉が開き、そこに現れたのは、まだあどけなさの残る小柄なメイド姿の少女だった。
清らかな面差しと、揺るぎない意志を秘めた瞳。
「……あなたは?」
遥が穏やかに問いかけると、少女は深く頭を下げた。
「霧羽綾乃と申します。本日より、遥様のおそばにお仕えするようにと申し付かりました、身に余る光栄に存じます」
かしこまったその口調に、遥はわずかに戸惑いながらも、静かに微笑を返した。
「ご案内に参りました。朝食のお支度が整っております。ペントハウスのダイニングルームにて、皆様と、ご一緒に召し上がられますか?それとも、こちらでお一人にて……?」
綾乃は、胸元で小さく手を組み、控えめに遥を見上げた。
遥は、ふと窓の外に視線を向けた。
帝都の街並みを白く霞ませる朝靄。
この爽やかな空気に包まれた場所で、孤独を選ぶ理由はなかった。
「……皆さまと、ご一緒させていただきます」
遥の返答に、綾乃は、ぱっと表情を明るくし、深く頭を下げた。
「畏まりました。それでは、ご案内いたします」
ガラスの回廊を、ふたりで静かに歩く。
その途中、綾乃は遠慮がちに口を開いた。
「遥様……いえ、もし許されるのであれば……」
言いよどむ綾乃に、遥は柔らかく応じた。
「何でしょう?」
「遥様のことを……お姉様と、お呼びしても、よろしいでしょうか」
その言葉に、遥は思わず歩みを止めた。
驚きと、そしてどこかくすぐったいような感情。
「……もちろん、かまいませんわ」
遥が微笑みながら答えると、綾乃は嬉しそうに顔を輝かせた。
「ありがとうございます、お姉様。わたくし、お姉様に心から憧れております。
初陣にて邪馬統の強敵を打ち倒したというお力……本当に、尊敬申し上げます」
過分の賛辞に、遥は小さく苦笑する。
「……恐縮です」
控えめに答えながらも、一時は冷え切っていた遥の心は、わずかに温かさを取り戻していた。
強化ガラスに囲まれたエレベーターに乗り込む。
透き通る壁の向こう、朝日を浴びて白金色に輝く帝都の光景が広がる。
浮遊するような感覚に包まれながら、ふたりは静かに最上階へと昇っていった。
やがて、エレベーターは滑るように停止する。
ペントハウス・ダイニングルーム。
高い天井。
床から天井までのガラス壁。
差し込む朝陽を受け、室内は虹色の光に満ちていた。
すでに、ふたりの男性が席に着いていた。
堂々たる偉丈夫――孟谷 勲。
獲物を狙う獅子の如き鋭い眼光と、鍛え抜かれた肉体。
無骨ではあるが、されど強く誠実なる男。
その隣には、銀縁眼鏡をかけた長身痩躯の男――お花茶屋博士。
遥の後見人であり、あふれぬばかりの知性と沈着を湛える赫の一族の導師。
ふたりは立ち上がり、遥を迎えた。
「遥、紹介しよう、彼が君の後見人弁護士Dr.お花茶屋博士だ、このタワー、レジデンツァ・ヴェラ・ヴィータのオーナーでもある」
孟谷が、率直な口調で言い、軽く顎を引いた。
「こちらへ」
案内されるまま、遥はゆっくりと席に着いた。
卓上には、整然と朝食が並べられていた。
その中に――
遥の目は、思わずあるものを捉えた。
銀のトレイの上、小皿に盛られたバター。
タバスコの小瓶。
そして、黒地に緑のロゴが燦然と光る――モンスターショット‼
昨日、まさかと思いつつ注文したにもかかわらず、しっかり用意されていたものが、ちゃんと今朝も用意されていた。
遥は、わずかに口元を緩め、にやりと笑った。
それは、新たな戦いを前にしたほんのささやかな、小さな安堵のしるしだった。
朝の光が、ダイニングルームを、静かに満たす。
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