第七十九章 餓鬼の島・「犬」と「熊」
港区・南青山「桐島インスティテュート」特別応接室
午前2時。
帰宅した桐島は、かすかに血の匂いを含んだシーシャをくゆらせていた。
黒いスーツの女が静かに現れた。
芦名 沙夜――"針"と呼ばれる女暗殺者。
「お呼びでしょうか、桐島様」
桐島は静かに頷き、言った。
「ネウルダに、死の風を送りたい。アスマン・ザルフ――"彼の横にいる心臓"を一つ、止めてくれ」
標的は、アマル・シャビーン。アスマンの義理の妹、ネウルダの財務口座の鍵を握る"秘密会計士"
六本木の通称ナマズビル、「GULF TOWER」17階で、日中は表向きの銀行を監査する一方で、夜間は仮想通貨流通システムの"換金ルート"に携わる。
華やかな宴を好み、男尊女卑が常のネウルダで、アスマンが認めた、唯一の女性幹部である。
「彼女を消しても、ネウルダの金の流れを止めるだけだ。だが、"桐島は無慈悲に女すら殺す"と彼に思わせれば、アスマンは躊躇するようになる」
「あくまで"静かに"ですか?」
沙夜の問いに、桐島は首を横に振った。
「いや、優雅に、だ。――死は、静謐であるほど美しい」
「了解しました。地下の秘密会議室で、客人がお待ちです――それでは」
沙夜の去った特別応接室。
桐島は立ち上がり、部屋をでるとエレベーターで地下の秘密会議室に向かった。
窓のない密室。
音を吸収する深紅の壁紙と、中央に配された長方形の黒曜石のテーブル。
天井の照明は最低限、ワインのボトルの半影だけがテーブルに落ちていた。
桐島幹紀は、漆黒のスーツに白手袋。
対面に座るのは――ロシアの民間軍事会社ズルロイ・メドヴェーチの極東部隊長、ユーリィ・グリャーチン。
白髪に深い傷のある面構え。顎に小さく刺青の跡を残す。
二人の間には、ひとつの小箱。
その中には、桐島興産傘下のケイマン島ファンドを経由した「匿名の債権書類」、総額120億円分。
“血の契約”としての依頼料であった。
「秩序”を穢した犬を、一掃したい」
ユーリィは口元に皮肉めいた笑みを
「その犬……アスマン・ザルフ。身の程知らずの牙を剥く野犬。 ……だが、我々は犬殺しではない。戦闘を好む獣だ」
桐島は構わず続けた。
「あの男が巣を構えた、荒川北岸一帯・“川端本郷”、自動車解体工場倉庫群。“ネウルダ”の軍事力・資金拠点が、そこに集約されている。
地図上から消して構わない。……ただし、“名前”は伏せたままに」
ユーリィは視線を動かす。
「この国の政府機関は、黙認か?」
「法治国家である以上……無関係ではない。だが、誰も咎めない。“都市開発に伴う事故”とでも報じられるだろう。必要があれば、手をまわしておく」
沈黙ののち、ユーリィは静かに語った。
「――契約完了。“クマの軍団”は、四日後、雨の夜に動く」
「ズルロイ・メドヴェーチ第一強襲中隊“ツンドラα”、
第二機動補給小隊、電子戦支援班、
そして――**実行特務班が出る」
桐島は一切感情を動かさず、グラスの水をわずかに傾けた。
「もし任務完了後に“記念品”が残るようなら……、私の屋敷に、“指でも、耳でも”送っていただければ良い」
ユーリィは、重たく頷く。
「あのアスマンという男に伝えておくさ――“帝都には犬の居場所はない”と」




