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第七十五章 餓鬼の島・アラビアン・クラブ

   1


 翌日、涼は入念な準備を終え、偽造した証拠の書類等一式を瀬尾に手渡した。受け取った瀬尾の指先はわずかに震えていたが、その瞳には覚悟の光が宿っている。


「これで、引き返せなくなったな……」


 瀬尾は息を吐くように低く呟いた。涼は彼の肩を静かに叩いた。


「私たちはもう最初から引き返せない道を歩いているんですよ。今更、後戻りはありません」


 瀬尾は苦笑し、小さく頷いた。


「確かにな。俺もここで、麻優に一矢報いてやる」


 そう言い残し、瀬尾は静かにその場を去っていった。


 涼が再びラボに戻ると、すぐに麻優が現れた。


 彼女はいつも通りの優美な笑みを湛えていたが、その目の奥には冷徹な疑念が垣間見える。


「神崎さん、私が頼んだ倉沢美月の誘導、準備は整った?」


 涼は冷静な表情を崩さず、麻優をまっすぐ見つめ返した。


「もちろんです。私が指定した場所と時間に、必ず現れます」


 麻優は涼の表情を注意深く観察し、一瞬鋭い視線を投げかけた。


「そう……あなたのことは信じているけれど、万が一にも裏切った場合、ほんっとうに後悔することになるわよ?」


 涼は微動だにせず、静かな笑みで返した。


「そのようなことは絶対にありません。麻優さん、あなたが望む結果を出してご覧に入れますよ」


 麻優はわずかに目を細め、満足そうに頷いた。


「期待しているわ、神崎さん」


 彼女が去った後、涼は深く息を吐いた。張り詰めた緊張感が、心臓の鼓動とともに激しく体中に響いていた。


   2


 JR西川渕駅前 ナイトクラブ『セクシーナイトイン・ドバイ』


 かつては風俗街の片隅にあったアジアン・スナックが、いつの間にか、クルド人犯罪組織ネウルダの資金で改装された疑似アラビアン・ラウンジ。


 入口にはゴールド装飾とLEDイルミネーションが彩り、店内ではベリーダンスショーとシーシャが煙を巻いている。


 だが、真の価値は"情報と毒が交差する密談の間"にある。


 煙の向こう、ベルベットソファに背を預けていた男が、重々しい笑みを浮かべる。


 アスマン・ザルフ。


 黒い開襟シャツの胸元には、金で象られた"牙の紋章"が光る。


 両脇には、肌を晒した異国風の踊り子たちが身を寄せていた。


 その目の前に座る男――


 神崎 涼。


「その煙、どこの香りです?」


 神崎が薄く笑いながら訊ねる。


 アスマンは静かにシーシャの管を置き、言った。


「ペルシャとパキスタンの国境で乾かした"記憶の香葉"。女より長く酔える」


「女より……そうかもしれませんね。だが、今夜はもっと強い香りを持ってきました」


 神崎が、胸ポケットから小さなSDカードを取り出す。


「赤羽、桐島興産の薬種倉庫。物流名義は桐島バイオリンク、医薬品流通の皮を被った――麻薬倉庫です」


 アスマンの目がわずかに細まる。


 指先でカードを摘み上げると、軽く指で弾いた。


「……日本人が流すのはだいたい毒か罠だ。だがな、それで踊るのが俺らだ」


「ええ。踊ってもらって構いません。火をつけてくれれば――どちらの秩序にも、穴が開く」


 神崎の声には皮肉も狂気も混じらない。ただ"何かが剥がれ落ちた人間"の乾いた響き。


 アスマンは笑った。喉の奥で獣が咆哮するような、低く、鈍く、粘つく笑い。


「上等だ。香りの焔をくれてやろう。お前は……いい煙になれるな、カンザキ」


 そして指を鳴らした。


 奥の個室から現れたのは、忠実な幹部、ナジム・シャカールとヤナル・クアディ。


 それぞれ、軍用装備と刃物付きの台車を手に、即時行動の構え。


「赤羽に火を放つ。青いタグの荷物を奪ってこい。代金替わりに"火薬の御礼"を置いてこい。トレーラーは川沿いに待機。――15分で出ろ」


 ナジムが無言で頷き、タブレットを起動する。


 ヤナルは歪んだ笑みを浮かべながら、


「この都市はいい。火薬の匂いと爆音がよく似合う」と呟いて消えた。


 神崎はもう何も言わず、立ち上がる。


 ドアの前で、ふと振り返った。


 そして、夜の闇に向かって低く言い放った。


「赤羽の空が赤く染まったら、闇社会の色も変わることでしょう……、幸運を祈ります」




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