第七十二章 餓鬼の島・慧眼
涼が地下室でかりそめの仕事を続ける日々は、精神的な拷問に等しかった。
自分を取り囲む壁が、日ごとに狭まりつつあるように感じられる。
常に誰かの視線を背中に感じ、監視の目はもはやあからさまだった。
食事をするのも、眠るのも、息をすることさえも、すべてが演技だった。
そんな中、麻優は唐突に涼を呼び出した。彼女が指定した部屋は、同じ地下の奥まった小さな応接室、重厚な扉を開けると、麻優が優雅にソファに座り、細い指先でゆっくりと紅茶のカップを回している。
「座ってちょうだい、神崎さん」
彼女の笑みは穏やかだが、その瞳の奥に宿る冷たさは鋭く、涼の心を貫いた。
「今日はまた、どういった御用でしょうか……」
涼は出来るだけ平静を装いながらも、その心の奥底では不安と恐怖が激しく波打っていた。
「最近のあなた、とても熱心に働いてくれているわ。けれど、私はまだあなたに対する疑念を完全には捨てきれないの」
麻優の言葉は優しい口調を保っていたが、氷のような冷徹さを隠そうとはしていない。
「私のどこに疑念を感じているのか、教えていただけますか?」
涼は慎重に訊ねる。麻優は一瞬目を細め、微かに笑い声を立てた。
「あなたの中に、まだ善良さから来る迷いが残っているように感じるの。私たちがここで行っていることは、道徳や正義とは無縁。いわば闇の世界の最前線よ。あなたのような清廉な人物には辛すぎるのではないかしら?」
涼は沈黙した。
麻優の言葉は彼の心を的確に見抜いていたからだ。
彼の内面に残る倫理観や正義感が、彼女の前では完全に透明になってしまったかのようだった。
「ですが、私が望んだのは、この組織で成功を収めることです。そのためならどんな犠牲も払うつもりです」
麻優は再び軽く微笑んだ。
「それを証明してもらう必要があるわね」
涼の胸がざわめいた。
「どうやって?」
麻優は静かに頷き、口元に笑みを浮かべたまま続けた。
「あなたのお友達、刑事の倉沢美月を誘い出して、私たちの手に引き渡してほしいの。あなたが本当に忠実な私の部下であることを、そこではっきり示してもらうわ」
涼は一瞬息を止めた。
心臓が激しく脈打ち、麻優のその要求がどれほど残酷なものかを即座に理解した。
「倉沢……刑事を、ですか?」
麻優は目を細め、楽しげに言った。
「ええ、あなたと彼女がスマホのラインのやりとりで繋がっていることくらい、こちらはとっくに把握しているのよ。今のところ、私たちにとって致命的な情報が持ち出されてないので、黙ってたわけ……。ここであなたが、彼女を差し出せば、優秀なダブルスパイとして、あなたに対する疑いは完全に晴れる。もし断れば、あなたがどうなるかは自分で分かっているはずよね?」
涼は絶望の底に突き落とされたような感覚に陥ったが、必死でそれを隠し、冷静さを保とうとした。
「まさか、彼女を殺すのですか?」
「どうしてそう思うの?私たちはあなたと同じように、彼女とお友達になりたいの……。警察の中にお友達がいれば、ビジネスはこれまで以上にスムーズに進むと思ってるからよ、ほほほ」
「……わかりました。全力を尽くします」
「いいお返事ね。期待しているわよ、神崎さん」
麻優は優雅に立ち上がり、部屋を静かに去っていった。
彼女の姿が完全に見えなくなった後、涼は拳を強く握りしめ、歯を食いしばった。
「どうすればいい……?」
倉沢美月を裏切ることなどできるはずがなかった。
しかし断れば、自分は間違いなく殺されるか、より酷い拷問を受けることになるだろう。
涼は再び秘密裏に美月へ連絡を入れた。
『倉沢さん、至急相談したいことがあります。組織があなたを狙っています。私を試すために……』
ほどなくして、美月から返信が届く。
『わかりました。危険は承知で私も動きます。上司とも相談し、策を考えます。絶対に無理はしないで』
涼は端末を握りしめ、美月の返信を読んでわずかに安堵を感じたが、心の重みが消えることはなかった。
彼は自分でも何か手を打たなければならないと考え始めていた。
このまま、何もしなければ、すべてが破滅に向かう。
自らの内部からの情報提供だけでは足りない。もっと価値のある動きを取る必要がある。
その瞬間、涼の頭に危険な一つの案が浮かんだ。
「組織の内部に亀裂を入れて、麻優の立場を危うくさせて、その支配力を弱めることができれば……」
彼の決意は徐々に固まり始めていた。
危険は承知の上だが、何もせずに麻優に操られることなどできるはずがなかった。
涼は深呼吸をして、自分の内なる恐怖を抑え込みながら、これから起こす危険な賭けへの覚悟を決めた。




