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第七十章 餓鬼の島・導師

 冥影の書斎は薄暗く、暖炉の火が静かに燃え、壁に揺れる影を映していた。書棚には古い装丁の書籍がぎっしりと並び、室内に漂う濃密な沈黙は息苦しいほどだった。


 麻優が静かに扉を開け、室内に踏み入った。絹のような髪が微かな灯火に照らされ、その表情は穏やかな微笑を浮かべているようでありながら、どこか底知れぬ深淵を秘めている。


 冥影は深いソファに沈み込み、眼を閉じて何かを静かに思索していた。やがて瞳をゆっくり開けると、麻優を静かに見つめた。


「麻優か……。どうだった、出来るというあの男は?」


 麻優は静かに一礼をした後、丁寧な口調で話し始めた。


「例のモールス信号の件ですが、神崎涼という男の信頼度を試すには十分なものでございました。彼は予想していたよりも、冷静かつ慎重でした。表向きは動揺を見せませんでした、しかし、どうやら、外部の者とひそかに連絡を取っている様子はうかがえます。」


 冥影は僅かに眉をひそめ、薄く微笑んだ。


「……ほう、慎重な男か。こちらの罠だとは気付いていたのだろうか?」


 麻優は静かに横に首を振った。


「恐らく気付いていたとしても、それを微塵も表に出しませんでした。確かなのは、あの男が以外にも深い忍耐と自制心を持ち合わせているということです」


 冥影は唇の端を歪め、低く唸った。


「なるほどな……その忍耐強さは魅力的だ。奴には更に深い闇の領域に踏み込ませる価値があるというわけか?」


 麻優は深く頷き、ゆったりとした動作で言葉を継いだ。


「誰と連絡を取り合ってるか、を、精査する必要はございますが、おおむね仰るとおりでございます。彼の知識と能力は組織の新たな領域で大いに役立つでしょう。特にAZコネクションの中でも最も、収益性の高い麻薬創薬事業にこそ、彼の才能を投入すべきかと思います」


 冥影はゆっくりと立ち上がり、書棚の前を静かに歩いた。その背中からは、計り知れぬ重苦しい威圧感が漂っていた。


「うむ、ただあの男の心の奥にはまだ何か深い迷いが残っている気もするが……」


 麻優は静かに目を伏せ、微かに微笑んだ。


「裏切るか、裏切らざるか、その迷いこそが、彼をより強くより有能にさせていると可能性はあるかと。彼は、私たちのように暗闇の底に堕ちきった者とは違い、まだかろうじて光の方を向いている。だが、その光が絶たれた時、彼は一気に闇の力を得るのではないでしょうか」


 冥影は振り返り、麻優を鋭く見据えた。


「麻優、お前がそこまで推すとは珍しい。だが、お前が信じるのであれば、この私も一度だけその男を信用してやろう。お前の目に間違いがなかったことを証明してみせろ」


 麻優は冥影の前で深く膝を折り、恭しく頭を垂れた。


「必ずや、ご期待に応えてご覧に入れましょう」


 冥影は小さく頷き、静かな声音で続けた。


「ならば神崎涼をAZコネクションの深層領域へ導け。ただし、常に監視を怠るな。万が一、完全に裏切ることがあれば、容赦なく、奴の手綱を引くものもろとも処分するのだ」


 麻優は微かな笑みを浮かべ、ゆっくりと立ち上がった。


「ご心配には及びません。万が一にも、その兆候があれば即刻処断いたします」


 冥影は再びソファに深く腰を下ろし、ゆっくりと目を閉じた。暖炉の火が揺れ動き、陰鬱な静けさが部屋を包んだ。


 麻優は静かに扉の方へと歩き出した。その表情には薄い微笑が浮かんでいたが、その瞳は冷たく、計算され尽くした冷酷さを秘めていた。


 部屋を出る直前、麻優はもう一度だけ振り返り、冥影に言葉を残した。


「神崎涼という男、これから彼が私たちにもたらすものが楽しみでございます」


 そして彼女は静かに扉を閉じた。冥影は閉じられた扉をじっと見つめながら、小さく呟いた。


「果たして、あの男は本当にこちら側の人間となれるか……。麻優、お前の目利きに期待しているぞ」


 書斎は再び深い闇に包まれ、暖炉の火だけがゆらゆらと冥影の顔に陰影を落としていた。

 

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