第七章 赫の芽吹き・美しき人生(ヴェラ・ヴィータ)
1
赫の一族が、秘密裏に所有する「美しき人生」と名付けられたタワーマンション、
その地下駐車場では、すでに待機していた黒服姿の赫の一族の郎党たちが動き出す。
重傷の斎を慎重に運び出し、遙もまた無言で車を降りた。
専用エレベーターに乗り込むと、十数秒で高層階に到達した。
ドアが開いた瞬間、眼前に広がったのは、帝都を見下ろす無数の光の海だった。
案内された部屋は、ただ豪奢なだけではなかった。
百五十平米を超すベッドルームの天井には、バカラのクリスタルシャンデリアが煌めき、幾千ものカットガラスが、夜景の光と溶け合い、星屑のように瞬いていた。
空間には、ただの明るさではない、格調ある陰影が広がっていた。
壁際には、FLOSのスタンドライトが、温かな光をそっと灯している。
そして、遥の視線を捉えたのは――
壁に飾られた、まぎれもないフィンセント・ファン・ゴッホ「夜のカフェテラス」であった。
夜空の下の、燃えるような黄色と深い藍。
筆の勢いの、滲み出る情熱と孤独。
赫の一族。
滅びを宿命付けられながらも、それでも抗い、命を燃やし続ける者たち。
ゴッホが筆に託した烈火と、赫の血に脈打つ紅蓮の焔には通じるものがあった。
遥はそっと拳を握り締める。
自らの人生の裡に封じられた烈火。
まだ小さな焔ではあったが、彼女の胸の中で燃え上り始めている。
今にも胸から噴き出しそうなその焔を、そっと鎮める……。
2
「軽めのものをお持ちしましたが……」
控えた二人の郎党が、紅茶とサンドイッチがのった銀のトレイを運んできた。
「ありがとう……、でも、よかったら……、バターと、タバスコ、それに……モンスターショットもお願い」
注文に、郎党たちは、顔を見合わせ、明らかに戸惑いの表情をみせたが、やがて「承知しました」と頭を下げた。
しばらくして、皿にはバターとタバスコのほか、黒地に緑のロゴが光るモンスターショットの小瓶が載せられて戻ってきた。
遥はそれを見て、思わず口元をわずかに緩めた。
「ありがとう」
小瓶を手に取り、一気に流し込む。
過度な甘みと刺激。
身体の芯に突き刺さるような感覚が、疲労で鈍った感覚をかすかに蘇らせた。
遥はバターとタバスコをたっぷり塗ったサンドイッチを無造作にかじった。
誰に気を遣うでもない、自分だけの味。それだけで、奇妙にも安堵が心に広がった。
食べ終え、皿を押しやると、ベッドサイドへ向かう。
FLOSのスタンドライトが、月光のような柔らかな光を灯していた。
遥はそっと、手を伸ばす。
指先でスイッチを押すと、灯りがふっと消えた。
闇が、静かに部屋を満たしていく。
シャンデリアの煌めきすら、夜の蒼に呑まれていった。
遥はベッドへと戻り、深く、静かに目を閉じた。
――夢を見る。
目を開けると、そこは懐かしい光に包まれていた。
柔らかな日差しの差し込む、古びた書斎。
壁には重厚な書棚が並び、革の香りと、わずかに甘い刻み煙草の香りが漂っている。
その中心には、父がいた。
養父、朱鷺宗将吾 。
彼は、まだ幼い遥を膝に乗せていた。
大きな手で遥をしっかりと抱き寄せながら、ゆったりとパイプを燻らせている。
「ほら、はるか。よく見てろよ」
将吾は、特別な仕草でパイプから煙を吐き出した。
ふわり、ふわりと――空中に幾重にもドーナツ型の煙の輪が広がる。
遥は歓声をあげ、小さな手でその輪をつかまえようとした。
指先が触れた瞬間、煙は儚く崩れ、空気に溶けた。
あれえと不満そうな表情の遥を見て、将吾が、笑った。
低く、温かい声。
どこまでも包み込むような笑顔だった。
夫婦間では子宝に恵まれなかったが、義父は、遥を、神から授かったかけがえのない宝物として、実の娘以上に愛おしく、慈しんでいた。
「このパイプはね……」
将吾は、手にしたパイプを見つめた。
それは、滑らかな艶を持つ極上のブライヤーウッド。
曲線は美しく、深い色味には時の重みが宿っている。
「これはパパの宝物だ。いや、もともとは、パパのお父さん――つまり、お前のおじいさんのものだ」
遥は、きょとんと将吾を見上げた。
将吾は笑いながら、続けた。
「ルーベン・チャラタン・シュープリーム。
1940年代に名工、チャラタンが手がけた、たった一つの品だ。
パパにとっては、ただの道具じゃない」
まだ幼い遥には、ルーベン・チャラタン・シュープリームの価値も、その言葉の重みも意味もわからなかった。
されど、その手の温もりと、声に込められた遥に寄せた確かな想いだけは、なぜか胸に深く刻みつけられている。
将吾はそっと、遥の小さな手を取り、パイプに触れさせた。
「いつの日か、これをお前に託す日が来るだろう。大事な人に出会えたら、受け継いでくれるとパパは嬉しい」
その瞬間――
世界が、柔らかな光に包まれた。
すべてが、遠ざかる。
遥は、目を覚ました。
――お父様。
夢に見た将吾の声。
あの手のぬくもり。
そして、ルーベン・チャラタン・シュープリーム。
遥は静かに、深く息を吸い込んだ。
この命を、この身を、決して無駄にはしない。
赫の一族の血と誇り。
義父から受け継いだ、周囲に対する慈愛の心。
燃えるような情熱を、絶えることなく守り続けるために。
未来、たとえ、どれほどの闇が待ち受けていようと――
たとえ、この世界に、居場所など何処にもなくても――
絶望の夜が果てしなく続いたとしても――
私は、生き抜く。
遥はゆっくりと目を閉じ、
再び目を開いたとき、東の空は、夜明けの色に染まりはじめていた。
かすかな光、
かすかな希望、
それさえあれば、
たとえ蜉蝣のように儚くても、
私は信じる。
遥は、もう一度窓の外に目を向けた。
ヴェラ・ヴィータ。
美しき人生。
――その言葉を、必ず自分のものにするために。
彼女の中で、決意が芽吹いていた。
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