第六十八章 餓鬼の島・罠
トリスタン製薬大手町ラボラトリーの地下フロア、涼が初めて異音に気が付いてから三日目。
壁外からのS.O.Sは今日も聞こえていた。
涼は緊張した面持ちで壁際へ再び近づいた。
胸元の鼓動を抑えつつ、壁面の音が響く場所を慎重に特定しようとしていた。
その瞬間だった。
「何をしているのかしら、神崎さん」
背後から唐突に、冷ややかな女性の声が響いた。
涼は心臓が凍りつくような感覚に襲われ、ゆっくりと振り返った。
そこには、麻優がいつものように落ち着いた表情で立っていた。
薄い笑みを口元に湛え、瞳には微かな嘲りがあった。
「麻優さん……」
涼は必死に冷静を装ったが、麻優の瞳の奥には涼を射抜くような鋭さが宿っていた。
麻優はゆっくりと歩み寄り、涼を静かに見つめる。
「壁から聞こえる音……不思議よね。あなたがそれに気づくのに、どれくらい時間がかかるか楽しみにしていたわ」
涼の喉元が緊張で引き締まる。
「一体、どういう意味ですか?」
麻優は薄い唇をわずかに歪め、静かに微笑んだ。
「神崎さん、あなたは優秀だけれど、残念ながら私には少し疑念があるのよ。だから少し試させてもらったの」
涼は言葉を失った。全身から血の気が引いていくのを感じた。
「試す……?」
麻優はわずかに首を傾げ、優雅に腕を組んだ。
「あのモールス信号を模した異音は私が仕掛けたちょっとした罠。あなたが、罠に誘われて何か余計な行動を取らないか、確認するためのね」
涼の表情が一瞬硬直した。それを確認するかのように麻優はさらに微笑みを深くした。
「タスケテ……のメッセージに、敏感に反応するーーなんて、やっぱり、あなたは私たちの信用に値しない人間だったのかしら?」
その声は静かで穏やかだったが、涼の耳には恐ろしい脅威として響いた。
麻優の言葉には鋭い棘が潜んでおり、涼の心に深く刺さり込む。
涼は懸命に息を整えながら、何とか冷静さを保とうとした。
「誤解です。私は単に奇妙な音が気になっただけで……」
麻優は軽く笑い、冷たく言い放った。
「そうかもしれないし、そうでないかもしれない。でも、これからはもっと気をつけて行動してもらう必要がありそうね」
麻優はゆっくり背を向け、涼に振り返ることなく静かな足音を響かせてラボを去った。
涼は激しく動揺した心を抑えながら、その場に立ち尽くしたままだった。
麻優はラボの所長室に戻り、静かに椅子に腰掛けて窓外を見つめていた。
その表情は冷淡で、わずかな感情すら読み取れなかった。麻優の部下が部屋に入る。
「神崎涼は、このまま放置しますか?」
麻優は軽く首を振った。
「そうね、もう少し泳がせておいて。ただ、監視をさらに強化して。彼が何らかの行動を起こすまで……」
麻優は微笑を浮かべて呟いた。
「神崎さん、あなたが次にどう動くのか楽しみだわ」
涼は麻優の足音が完全に遠ざかるまで、身動き一つできなかった。
自分の行動が完全に麻優の掌中で踊らされていたことを悟り、彼の中には底知れぬ恐怖が静かに広がっていった。
全身が冷え切り、背中には氷のような冷たい汗が流れ落ちていた。
地下の薄暗いラボが、まるで自分の心を映すかのように、より陰鬱な空間に感じられた。
涼は知らずのうちに、自らが挑んだ心理戦で、さらに深い陰謀の渦中へと引き込まれていくのを感じていた。
「罠だったのかよ……完全に嵌められた」
低く呻くように呟き、拳をきつく握り締めた。妹の仇を討つために、自ら志願した潜入調査だった。だがその代償は、あまりに大きくなりつつあった。
一瞬の後悔と自責が彼の心を駆け抜ける。
しかし、その絶望を涼は必死に振り払った。いま重要なのは、この状況をどう乗り越えるかだ。
涼は深く息を吸い、無理矢理に動揺を抑え込みながら静かにスマホを取り出した。
『倉沢さん、申し訳ありません。罠でした。麻優に完全に見透かされています』
涼は簡潔に状況を打ち込んで送信した。すぐに画面に美月からの返信が表示される。
『状況は理解しました。身の安全を最優先に。今はこれ以上動かず、静観してください。必ず対処します』
涼はその短いメッセージにわずかに安堵しつつも、自分の迂闊さを激しく責めた。
麻優からの再び信頼を取り戻すためには、さらなる用心と覚悟が必要になるだろう。




