第六十五章 餓鬼の島・壁外からのS.O.S
神崎涼は、薄暗い地下のラボで孤独に研究を続けていた。
青白く光るモニターの中で絶え間なく流れる分子構造のシミュレーションは、冷たく完璧な美しさを湛えている。
だが、その美しさを見るたびに涼の胸には深い、底なしの嫌悪感が広がり、心が静かに蝕まれていくようだった。
「俺は何をやっているんだろうな……」
自嘲気味に呟きながら、涼は一瞬、目を閉じた。
瞼の裏に浮かぶのは妹・玲奈の屈託のない笑顔だ。
それはあの日、あの恐ろしい薬物に奪われ、二度と戻らない笑顔。
ふとその瞬間、彼の思考を遮るように、奇妙な音が耳を掠めた。
トン……トン……トン……
それはかすかながら、不規則なリズムを伴いながら壁の奥から滲み出すように響いている。
涼の鼓動が一瞬、乱れ、彼の体は硬直したように動きを止めた。
「なんだ……この音は……?」
涼は無意識に立ち上がり、音のする壁際に近づいた。
耳を壁面に密着させ、微細な音の正体を掴もうと必死に集中した。
トン……トトン……トン……
壁の中から漏れ出すその低い響きは、不気味で生き物じみており、まるで闇の中で息をひそめて脈打つ心臓の鼓動のようだった。
体の奥底から湧き上がる不安が、涼の背筋をじわりと這い上がっていく。
「まさか……誰かがいるのか……?それとも、これは……何の音だ?」
彼の唇が微かに震える。孤独な地下空間で響くその音は、彼が押し殺してきた恐怖や不安を容赦なく掘り起こした。
トン……トン……
その不吉な響きは止む気配がなく、むしろ徐々に強く鮮明になり、涼の脳裏に刻まれ始めた。
「……俺は、正気を保っているのか?」
涼は自問するように呟き、頭を振って我に返ろうと試みた。
だが耳を塞いでもその音は消えず、彼の心を執拗に揺さぶり続けていた。
神崎涼はその音に集中していた。
低く不規則な音のように思えたが、じっくり聞き続けているうちに、それが一定のパターンを持つことに気がついた。
トン……トトン……トン……トトトン……
「これは……まさか、モールス信号?」
彼の胸の奥が激しく鼓動した。
涼はすぐに紙とペンを手に取り、壁から漏れ出るその音を注意深く聴き取りながら書き出し始めた。
『タ……ス……ケ……テ』
背筋に冷たいものが走った。
「嘘だろう……これは、誰かのSOSだ……」
涼の心臓は激しく脈打った。
AZコネクションの地下には、自分以外にも人間が存在し、何らかの理由で捕らえられ、必死で助けを求めている。
その可能性に彼は全身が震えた。
自分だけが危険を背負っていると思っていたが、それは思い上がりだったのかもしれない。
すぐにでも助けに行きたい衝動に駆られたが、無謀な行動は組織の監視を強めるだけだ。
涼は心強く思いながらも、同時に新たな恐怖を覚えた。
このSOSの主は誰なのか?そもそも、自分の力で救えるのか?
彼は再び壁に耳を当て、信号を聞き逃さないよう注意を集中させた。薄暗い地下の密室で、涼の孤独な戦いは新たな局面を迎えていた。




