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第六十四章 餓鬼の島・復讐の第一歩

 大手町のオフィスビルの地下。「トリスタン製薬大手町ラボラトリー」--実際はAZコネクションの秘密研究所。


 神崎涼の復讐の第一歩はここから始まった。


 地下深くに設けられたAZコネクションの秘密ラボは、コンピューター機器の淡いブルーライトが不気味に照らす以外に光源がない薄暗い空間だった。


 壁には最新鋭のシミュレーション装置が並び、複数のモニターに目まぐるしく数値や分子構造が表示されては消えていく。


 ラボ中央に置かれた椅子に深く座り、涼はキーボードを叩いていた。


 彼の瞳は画面を追いかけるように鋭く動き、素早く情報を処理していく。


 画面に表示される分子構造は複雑な幾何学模様を描きながら絶えず変化している。


 涼は最新の分子ドッキングソフト『ジョーカーズ・AutoDock』を駆使して、薬剤候補分子が脳内のCB1受容体にどのように結合するかをシミュレーションしていた。


「受容体結合親和性は……従来の1.5倍か。ここまで親和性が高ければ、脳内での効果は劇的に向上するな」


 涼の独り言は淡々としていたが、その瞳の奥には激しい憎悪の感情が渦巻いていた。


 妹を奪った麻薬を、自らの手で改悪するという皮肉な状況に、心の中では吐き気がするほどの自己嫌悪が広がっていた。


 次に、分子動力学シミュレーションの画面へと切り替えた。使用するのは高性能ソフトウェア『D-GROMACS』、仮想空間上で薬剤分子の動的挙動が計算され、リアルタイムで受容体との相互作用が分析された。


「構造安定性も十分だ。結合した後の分子変化はほぼゼロ。これだと投与された者の脳内で長時間、安定した作用を続けることを意味している……」


 涼の手が一瞬止まり、拳を握りしめた。


 だが彼は即座に興奮の感情を抑え込み、次の作業へと移った。


 定量的構造活性相関(QSAR)の解析だ。


 解析プログラム『シュレーディンガー Suite』を駆使して、化合物の化学構造とその生物活性を精密に数値化し、薬効の定量的評価をチェックする。


「依存性予測指数、史上最悪のスコアか……。まあ、ドラッグディーラーにすれば、最高の数字だが……まるで、悪魔の中の悪魔を作り出しているようなものだな」


 涼は微かな自嘲を浮かべる。しかし同時に、彼の頭脳が示した高精度なシミュレーション結果は、麻優から絶対的な信頼を得るための強力な武器にもなり得た。


 そして彼は最後の工程に入った。


 標的蛋白質(ターゲットプロテイン)の構造を予測するホモロジーモデリングだ。改「悪」型ジャパン・ワルキューレのタンパク質構造と類似構造をもつ既知のタンパク質の構造から、推測・モデル化アプリを立ち上げて、仮想空間内に最終目的の標的蛋白質(ターゲットプロテイン)の三次元構造が再現されていく。


「よし、これで完璧だ……」


 涼がモニターを見つめていると、背後で軽い足音がした。


 麻優だった。彼女は静かな笑みを浮かべていたが、その目は鋭く、涼の画面を素早くチェックした。


「驚いたわ。短時間でここまでのジャパンワルキューレのチューンアップモデルを試作するなんて、あなたは本当に天才的ね、神崎さん」


 麻優の声は穏やかだったが、その底には明らかな威圧感が潜んでいた。


 涼は冷静に応じた。


「ありがとうございます。あとは実際に合成し、生体実験による検証が必要ですが、まず理論的なシミュレーションでは完璧です」


 麻優は満足そうに微笑んだ。


「素晴らしい仕事ぶりよ。あなたを採用したのは間違いではなかったわ。でも、次の実験段階では更なる改良を求めるかもしれないわ。その時も期待しているわよ」


 麻優が立ち去った後、涼は椅子に深く身を沈め、深呼吸をした。


 画面に浮かぶ中毒性の高い薬物分子が、あまりにも禍々しく思えた。


 彼自身が妹の命を奪った薬をさらに改悪化させるという耐え難い罪を背負っていることが胸を締めつける。


「玲奈よ、……俺は悪魔に魂を売ってしまったのかもしれない。でも、これは奴らを必ず潰すための第一歩だ……」


 涼は強く自らを鼓舞し、シミュレーションデータを密かに暗号化して倉沢美月に送信した。


 表向きは組織のために天才的な成果を出しつつ、裏では確実にその弱点を見つけ出し、壊滅へと導く。


 涼の心の中には、闇に立ち向かう覚悟と、妹への鎮魂の願いが静かな炎となって燃え続けていた。

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