第六十章 餓鬼の島・因縁
グランドマザー号、東京入港の日が近づいてくる。
邪馬統神勅教会碑文谷道場。
陣幕源治、八傑衆が顔をそろえていた。
源治が八傑衆の其々《それぞれ》の貌を見て、厳かに口を開いた。
「八傑よ。帝都は今、久しくなき激震の胎動に囲まれておる。西よりの風吹きて、赫の血を呼び起こす者どもが、"炎"をよみがえらせている」
「だが忘れるな――赫は奇しき力にあらず。あれは、かつてこの国を汚し、祀り上げられた"獣"の残滓である」
「我ら神勅の民は、理の法を継ぐ者。魂の焔を以て国を動かす時代は、もはや千年の昔に終わったのだ」
「今や、我ら、邪馬統は国体の柱である。決して感情に駆られるな。赫を憐れむな。赫に近づくな。赫に混じるな」
──ここで、源治の視線が弥生に向く。
そのまなざしは冷たく、だが確かに"父"の色を含んでいた。
「蒼刃姫・冥華、いや、弥生――」
「お前の剣、お前の技は、神勅が育てたもの。赫き血であろうとなかろうと、神命に従い、赫の一族を討つためにある」
「己の中に芽吹くものが何であれ、迷うな。赫の息吹を感じたなら――最初に切り伏せるのは、お前でなくてはならぬ」
弥生は答えなかった。ただ、ゆっくりと瞼を伏せ、一礼する。
「グランドマザー号――あれは"赫の殲滅と邪馬統再興"の先駆けの舞台だ。政と民の目を欺きつつ、赫という"脅威"を完全に、歴史より切除する儀式である」
「お前たちはそれぞれ、"天の印"を継ぐ八つの刃。感情を斬れ。迷いを凍らせよ。誰であろうと赫を庇う者があれば、それもまた、"赫"と見なして倒せ」
「これは命令ではない。これは"理"である。理とは、ただの命令ではない。国家の柱として、"自らそうあらねばならぬ"という、唯一無二の"血の掟"」
「我が八傑よ。赫に殲滅の裁きを。天下に理を。行け。そして、赫を断て」
最後の言葉を吐き終えたとき、源治の声音は濁りなく、ただ深く重かった。
弥生は静かに瞼を伏せ、
冥影は黙してうなずき、
牙王はわずかに顎を上げて嗤い、
晶華は、どこまでも冷たく頷いた。
――八傑の刃が、ひとつの"意思"を宿した瞬間のはずであった。
重い沈黙のなか、八傑たちはそれぞれの意思を胸に収めたかに見えた。
だがその列の中、ひとりだけ――金狼侯・牙王の空気が、微かに異なっていた。
彼は組んだ腕を崩さず、目を伏せたまま一歩も動かない。
どこか熱を帯びぬ"無関心のふり"。だが、それが逆に目立つ。
それに気づいたのは、誰よりも先に――陣幕源治だった。
「……牙王」
低く、沈み込むような声。
牙王は、眉一つ動かさず答える。
「命令は了解しましたよ。俺は俺なりに、やりますよ。たぶんな」
「"たぶん"では困る」
源治が、床に歩を刻む音すら消え入るほど、間を詰めて静かに告げた。
「利の絡まぬ戦いには今一つ、気分が乗らぬか、お主……朱鷺宗将吾のことを、覚えているか?」
その名を聞いた瞬間、牙王の指が一度だけ止まった。
源治は、その一瞬を見逃さなかった。
「邪馬統が資金難であえいでいた時に、奴から、五億円を奪い、お前が処したはずだ――あの時、青山で」
牙王は、グッと舌を打った。
「……それが何だ」
源治は口の端をわずかに持ち上げた。
「今、赫の中心にいる"娘"――朱鷺宗遥は、その将吾の遺児だ」
静寂。空気が一段階、冷えた。
牙王は、肩で笑った。
「へぇ……こりゃまた、五億円の"燃え残り"ってやつか」
しばしの間、何かを噛み砕くような沈黙が流れたのち―― 牙王は、初めて真っ直ぐに源治を見据えた。
そして、言った。
「なら……いいでしょう。仇を――"返り討ち"にしますよ」
その声音には、もう皮肉はなかった。
赫い遺児の前に仇として立つ。
かつて自分が殺した男の"続きを燃やす火"を、自らの手で摘み取る。
源治は静かに頷いた。
「それでいい。赫には、赫以上の"理"で火を断て。――頼んだぞ、"金狼"」
牙王は踵を返し、黒い礼装の裾を揺らして退出した。
だがその背に残された者たちは、誰も――彼の目に灯った光を、見逃してはいなかった。
2
雨音の向こうで氷が溶ける音を聞きながら、牙王はひとり静かにウイスキーを揺らしていた。
目を閉じると、あの夜のことが鮮やかに思い出される。
――神勅の会が、資金難に陥ったあの頃。
内政工作と裏献金で金は流出し、霊的拠点の維持すらままならなかった。
それを補うために、牙王は一計を案じた。
「融資枠をひとつ用意しました。将来性のある宗教法人――"事業再編"の名目で5億。ただし、今夜中に書類を揃えてもらえれば」
その男――朱鷺宗将吾は、正当な融資だと、信じていた。
そして、5億は動いた。
だが、架空の口座、幽霊会社。証文はすべて"仕組まれた破綻"だった。
将吾は、すべてを背負わされたまま、世間的には"背任事件の容疑者"と処理された。
実際には――牙王自身の手で"始末"したのだった。
あれは、「会」を救った判断。
誰もが口には出さないが、神勅はその金で再び回り出したのだ。
牙王は、グラスを空にして、無言のまま立ち上がる。
窓の外――報告書の写真に映る、赫の少女。
血は繋がっていないとはいえ、その目元に、確かに将吾の面影があった。
「……あいつの、餓鬼かよ」
牙王は、笑った。
だがそれは、口の端でひきつるような、誤算の笑みだった。
「消したと思った火種が、今度は赫になって燃え上がる。しかも、台場の戦場では、奴とその妹分に地獄の淵まで見せられた。因果な話だぜ」
彼は煙草に火を点け、天井に煙を吐いた。
「――なら、見せてもらおうか。今度は俺に、あいつの娘が何を投げつけてくるか」
その瞳には、すでにただの"赫狩り"ではない色が宿っていた。
仇を返り討つと誓った牙王の前に、かつて殺した男の"業火"が少女の姿で現れる。
この戦いは――もはや"命令"ではなかった。




