第五十五章 餓鬼の島・桃の香り、死の臭い
桃山 灯は、建物の前で立ち止まっていた。
スマホの画面には、さきほど届いた"依頼"の通知がそのまま光っている。
「25歳、会社役員」「お洒落な会話がしたいです」「同伴3h/10万円」――。
まるで"ご褒美"のような金額だった。
だが、灯にとってはそれが、"代償"にしか見えなかった。
喉が渇いていた。
けれど、舌が口内に張りつくような渇きで、水を飲みたいとは思えなかった。
息を吸い込むたび、肺が軋むような音を立て、鼓動が耳の奥で鳴る。
足が、動かない。
(逃げよう)
そう思った。
(やめよう、いまなら……)
けれど、足はどうしても前に出てしまう。
(やめて、と言われたなら、どれだけ楽だっただろう)
誰かが言ってくれればよかった。
「行かなくていい」と。
けれど、誰も言ってはくれなかった。
誰も、灯の心の奥には気づいてくれなかった。
だから、灯は、自分で歩くしかなかった。
黙って、誰の声も聞かずに――その扉の向こうへ。
足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
扉の内側は、外観からは想像もつかない異空間だった。
天井は低く、燭台のような照明が赤く灯っている。
床は濃い漆黒の畳で、踏みしめるたびに沈む感覚があった。
絹の暖簾が何重にも垂れ、奥の気配を隠している。
その一枚一枚をくぐるたびに、灯はまるで"祝詞を逆に唱えている"ような錯覚に囚われていった。
香炉からは甘く重い香が漂い、鼻腔を抜けて頭の芯を痺れさせる。
鈍く光る屏風に映るのは、自分の姿ではなかった。
まるで、"別の誰か"の影――あるいは、"そうなってしまう誰か"の姿。
部屋の中心に、小さな朱塗りの円卓があり、その向かいに氷の彫像のような女が、微動だにせず座していた。
氷艶妃・晶華――桃幻苑の"女主"。
その傍に控える巨大な影、灰狒が、ぬらりと立ち上がる。
背後の扉が、音もなく閉じられる。
その音を聞いた瞬間、灯は、ここが"出口のない場所"であることを知った。
晶華は、顔を上げた。
その瞳は、まるで濁りのない氷湖のようだった。
澄んでいるのに、どこまでも冷たい。
見つめられただけで、灯の心臓が強く打った。
「……桃山 灯さんですね」
囁くような声が、空間を満たした。
その声は、優しかった。だが、どこか"告別"のような響きがあった。
灯は、うなずくしかなかった。声が、出なかった。
「大丈夫。こわくはありませんよ。私たちは、あなたの中にある"美しさ"を、引き出すだけなのです」
――"美しさ"。
その言葉に、灯の背筋が震えた。
誰も、自分をそう呼んだことはなかった。
売られる肉体、使い捨ての笑顔、値段のついた沈黙。
そんなものに、美しさなどあるはずがない。
「あなたの"情動因子"は、今、とても綺麗に澄んでいます。悲しみも、罪悪感も、きれいに層をなして……まるで琥珀のように」
晶華の指が、静かに硝子の鈴を鳴らした。
その音が耳元で小さく響く。
――違う。音ではない。
響いたのは、"記憶"だった。
母の咳。白い薬包紙。
布団の中から伸ばされた、小さな手。
"ごめんね……こんな身体で……"
その言葉を思い出した瞬間、灯の中で何かが崩れた。
力が抜けていく。
晶華は、静かに手を差し出した。
「よろしければ、奥へ」
その微笑は、慈悲にも見えた。
けれど灯には、それがどうしても、魂を手放させる者の、優しい笑みにしか思えなかった。
その気配は、ずっとそこにあった。
晶華の傍らに控える影――灰狒。
彼は一言も発せず、動くこともなく、ただその場に"在った"。
だが、灯は確かに"感じて"いた。
まるで山が睨んでいるかのような圧力。
呼吸が浅くなり、背中が粟立つ。
巨躯。鉄のような腕。
静かすぎるほどの静寂が、逆に恐ろしかった。
(もしこの場で叫んだら、きっとこの男が私の喉を掴む)
灯は、確信していた。
灰狒は、晶華の意志だけで動く。
その瞳には、哀れみも、好奇心もなかった。
ただ――晶華の命令が下れば、破壊する。
それだけだった。




