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第五十四章 餓鬼の島・噂

 神宮寺学院生徒指導主任を務める仁斗呂 は、近頃校内の生徒の間で囁かれている不遜かつ出所不明の噂に眉をひそめていた。


「ピーチサロンって知ってる?表参道の裏にある隠れ家的バーで、神宮寺の子が"週末だけ"バイトしてるって……」


「パパ活じゃなくて、"契約交際"って言い方してるらしい。実際はね……」


 名門学院の安寧秩序を揺るがしかねない噂の真偽は確かめなくては……と、似斗呂は考えていた。


 古びた木製の窓枠から差し込む光は弱く、薄曇りの空が硝子越しに灰色を滲ませていた。


 室内には、筆立てと古めかしい地球儀、指導記録簿が積み重なった執務机。


 その中央に、ひときわ異質な存在感を放つ一通の封書が、無造作に置かれていた。


 無記名。差出人不明。宛名すらない。


 ただ、茶封筒の表に、乱れのない筆跡で、こう書かれている。


《桃幻苑について/神宮寺女生徒の名を汚す者ども》


 机の主――生徒指導主任、仁斗呂 は、顔をしかめてそれを見下ろしていた。


 鋭く濁った眼差し。肌に刻まれた刀傷。


 肩に立て掛けられた竹刀が、木製の床にかすかに軋んでいる。


「……誰だ、こんなものを勝手に置いたのは……」


 苦々しげに呟くと、封書を手に取り、中身を引き抜いた。


 一枚の便箋と、複数のカラー写真が挟まれている。


 写真には、制服姿の女子生徒――


 その中には、確かに神宮寺学院の生徒たちの姿があった。


 しかも、青山さくら組として選抜された"優等生"たちも――その中に、見覚えのある名があった。


 桃山 灯(ももやま あかり)


 仁斗呂が密かに目をかけていた生徒のひとり。


 成績優秀、素行良好、奨学生であり、末期がんの母親の面倒をみ、恵まれない家庭環境に苦しみながらも健気に生きる少女、の筈だった。


「ピーチサークル。裏名"桃幻苑"。灯は"契約対象者。他にも複数の学院生徒が関与中とのこと」


 仁斗呂の顔が、硬直した。


 静かに立ち上がる。


 手元の竹刀がギリ、と音を立てて鳴る。


「――"桃幻苑"か、学院の名を、こんな形で穢すことはゆるされぬ……」


 仁斗呂は、机の引き出しから調査ファイルを取り出し、


 渋谷周辺の風俗店舗データを高速でめくりはじめた。


「ケツ持ちは、半グレ《灰冥会》……確か、前に潰した"渋谷新星会"の流れを組むはず……」


 視線は鋭く、手は止まらない。


 次の瞬間には、もう電話機を掴んでいた。


 「仁斗呂だ。三年D組の桃山灯について、すぐに行動履歴を調べろ。下校ルート、出入り、所持品検査記録。監視カメラの映像も確認しろ――"先月"の分からだ、急げ。あと、二年生の朱鷺宗遥は、今、何処か」


 異能をもつ女生徒が、神宮寺学院の二年にいる、その名は朱鷺宗遥、似斗呂の眼力は見抜いていた。

 

 この娘は使える――と。


 受話器を叩き置き、彼は呟いた。


「――この腐った根っこは、引き抜かねばならんな」


 午後の陽が沈みかける校庭中庭のベンチ。


 制服のまま、ひとり、うな垂れて座る少女の姿があった。


 桃山 ももやま・あかり


 スマホの画面に指を添えたまま、


 その目はまるで“触れたくない現実”を見つめるように、静かに曇っていた。


 画面に表示された、新着メッセージ。


【新規契約:お客様No.2007】

「25歳、会社役員」

「お洒落な会話がしたいです」

「3h/10万円」


【場所】表参道 桃幻苑・夜の部


「……また、“会話だけ”って言うんだ……」


 灯の声は、掠れていた。


 高額な報酬と、どこか曖昧すぎる条件。その裏に、どんな“契約の継続”が待っているのか――もう分かっていた。


 制服の上からでも伝わってくる心臓の震えが、止まらない。


  高額な報酬と、どこか曖昧すぎる条件。その裏に、どんな“契約の継続”が待っているのか――もう分かっていた。


 薄手の制服の上からでも伝わってくる心臓の震えが、止まらない。


 バッグの中には、何枚もの“封筒”があった。


 いずれもこれまで、手渡しで受け取った“報酬”。


(お母さんの抗がん剤、次の検査……それが10万円。これがないと、治療はもう打ち切り……)


 一万円札の一枚一枚の重みを思うたび、背中が少しずつ曲がっていく気がした。


 「いつから、“わたし”って、こんなに軽くなったのかな……」


 その、彼女の姿は、旧校舎の階上から見つめられていた。


 仁斗呂爆――生徒指導主任。神宮寺学院において、暴力と恐怖で風紀を護る男。


 仁斗呂は拳を握った。


(桃山……お前も堕ちたか。だが俺は、必ず引き戻す)


 夕刻の光が、鬼の輪郭を濃くする。

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