第五十二章 餓鬼の島・共鳴
帝都・東部廃公園跡――薄曇りの午後。
廃墟と化した園の一角。
苔に覆われた石畳が、まるで忘れられた過去の記憶のように広がっている。
噴水の跡はもはや水を湛えず、朽ちた石像の間を、ただ春の風が通り過ぎていた。人の気配はない。
卯月は、祈りの帰りに、誤ってこの路地に迷い込んでいた。あたかも導かれるように迷い込んだ路地であった。
「……誰かに、呼ばれた気がしたのですが」
誰にともなく呟いた言葉が、風に溶けていく。
そのときだった。
風の向こう、朽ちた藤棚の陰から、ひとつの気配がゆっくりと現れた。
漆黒のローブ。波打つ長髪。
霧羽綾乃。
赫の一族にして、波を操る異能者。
卯月は、息をのんだ。
初陣で、八傑衆の、武闘派幹部、金狼候 ・牙王を翻弄した後から、彼女の名は神勅内で広く囁かれていた。
「赫の豪姫」と畏れられ、「危険な異端」として警戒の対象となっている少女。その姿を直に見るのは、卯月にとっては初めてだった。
だが、逃げようとは思わなかった。むしろ、不可思議な懐かしさが胸を満たしていた。
綾乃も、卯月の存在に気づき、静かに立ち止まる。
ふたりの視線が、まっすぐに交差した。
剣は抜かれず、結界も張られず。
巫女装束と漆黒のローブだけが、曇り空の下で静かに揺れていた。
最初に口を開いたのは、卯月だった。
「……貴女は、綾乃様、ですね」
綾乃は驚いたように瞬き、首をかしげた。
「何故、私の名前を……知っているのですか?」
卯月は、ひとつ深く頷き、目を伏せて答えた。
「感じずにはいられなかったのです。……あのとき、滝で祈ったとき、あなたの“声”が……私に届いたから」
綾乃の瞳が、かすかに揺れた。
「……滝の祈り……あれは、あなたが……?」
卯月は微笑む。
「お姉様の息災を、ただ祈りたかったのです。あの夜、どうしようもなく、怖くて、けれど……何かを願わずにはいられなかった」
綾乃は胸元に手をあて、ゆっくりと目を閉じる。
「あのウタヒ……優しい響きでした。怒りでも、怨みでもない……まるで、泉が澄んでいくような祈り」
彼女は目を開け、卯月をまっすぐに見た。
「その想いは、わたしにも届いていました。だから……答えたのです。あなたの“ウタヒ”に」
風が、ふたりの間を吹き抜ける。
沈黙。
敵でも味方でもなく。神勅でも赫でもない。
ただ――“姉を想う妹”同士として。
卯月が、小さく微笑んだ。
「……綾乃さま。貴女と、敵でいられない気がして……困っています」
綾乃もまた、やわらかく頬を緩めた。
「癒しのウタヒを謡える方に、剣を向けることなんて……きっと、誰にもできませんわ」
卯月は、静かに一歩、綾乃に近づいた。
「私たちは……出自も立場も、何もかも違うけれど、ただひとつ、同じことを想っていると思うのです」
「お姉様を、守りたいのですね」
綾乃は、その言葉を聞いて、ゆっくりと頷。
そして、同じように一歩前へ進んだ。
「わたしも。……お姉様が赫の一族であっても、そのことについて、邪馬統の者に何を言われようとも……お姉様が、お姉様である限り、信じていたいのです」
ふたりは、互いの距離を詰めることなく、それでも“祈りの距離”で繋がっていた。
卯月は、そっと胸元に両手を重ねる。
「また、会えますか……?」
綾乃は静かに、確かに頷いた。
「はい。必ず」
ふたりは、言葉もなく、深く頭を下げた。
挨拶ではない。
戦いではない。
“また会う日まで、互いの姉を信じ続けましょう”――
その誓いが、風に乗って交わされた。
その場を後にしながら、卯月はふと立ち止まり、振り返った。
綾乃の姿はもうなかった。
けれど、胸の奥には、確かに残っていた。
あの律動。
あの響き。
そして、姉を想う気持ちという名の、静かなウタヒ。
霧羽綾乃の姿が、風の中に消えていった。
卯月は、見えないはずの、その背中を、しばらく動けずに見送っていた。
微風が舞い、花びらが一枚、肩に舞い落ちた。
すべてが静かだった。
静けさの中に――卯月は、ぽつりと息を吐いた。
「……お姉様。私は……やっぱり、まだ弱いのですね」
自分が知る"戦う者"とは、お姉様――弥生の姿だった。
自らの力をもって敵を断つ刃、神勅に生きる冷たき蒼刃姫。
そしていま、霧羽綾乃という、敵対する赫の一族の少女に出会った。
その姿は、刃ではなかった。
優しい祈りを宿す波だった。
(あのひとも、わたしと同じだった)
姉を案じ、姉を護りたいと願う心。
それは、力でも、言語でもない、祈りの"心"で伝わってきたのだ。
「……私、綾乃さまと闘いたくありません……」
思わず、呟く。
誰もいないはずの空間に、声だけが残る。
手を胸に当てた。
そこにはまだ、微かに波打つような温もりがあった。
あれは、共鳴だった。
愛のウタヒ――きっと、そう呼ぶべき何かが、綾乃と自分の間に生まれた。
「……お姉様……わたし、いま……怖いです」
敵であって、味方でない。
敵同士の間で、ただ"姉を想う妹"であった者同士が、声を交わさずとも心を重ねてしまった。
――その事実が、なによりも怖かった。
このまま、闘いが続くと、何かが、崩れてしまう気がした。
だが。
(もし、それでも……)
視線を空へ上げる。
高く澄んだ空の彼方、朱色の鳥影が、ほんの一瞬、よぎったような気がした。
偶然だとしても、偶然とは思えなかった。
「……それでも私は、お姉様を……護りたいです」
綾乃の手に宿る、暖かな力を、肌で感じた。
けれど、それでも、私は姉の側に立つ。
姉の痛みを癒すために、このウタヒを磨き続ける。
「たとえ……それで、この身が裂かれることがあっても……」
小さく、両の掌を重ねる。
掌の中に浮かんだのは、"共鳴"という名の、小さな温かな光だった。
「……綾乃様……また、会えたら……もう一度、話をさせてください」
それは、願いだった。
いつか再び、祈り合える日を信じて。
卯月は、静かに踵を返した。
春の風が、その背を押してくれるようだった。
けれどその背中には、迷いはなかった。
それは、姉を想い、仲間を信じ、敵にすら祈りを送る――
"卯月"という少女の、真なる歩みの始まりだった。
そして――
そのころ、遠く離れた帝都の東。
赫の一族が潜む屋敷の奥、霧羽綾乃はひとり、静かに瞑目していた。
胸の奥、波のように揺れる小さな鼓動。
(……卯月さん)
ふいに、唇の端が緩む。
あの日、交わしたわずかな言葉と、祈りの響き。
忘れるはずがなかった。
「……また、きっと……」
綾乃の声は、風に紛れて消えた。
だがそれは、確かに未来への――再会の約束だった。




