第四十八章 餓鬼の島・混迷の宰相
午前九時、永田町・首相官邸。
分厚い防音扉が閉じられると同時に、重苦しい沈黙が降りた。
室内には、官邸直属の首相補佐官、内閣官房副長官、国家公安委員長、防衛・外務・経産担当の閣僚らが列席している。
その中央、主席で両手を震わせながらメモを繰る男。
吹屋心。
第107代内閣総理大臣。
与党政界三世議員で、元テレビ局政治解説委員という異色の経歴を持ち、"ふきやん"の愛称に加えて、“聞き上手”と“世論を嗅ぎ分ける嗅覚”でここまで登り詰めたが――信念と胆力に著しく欠けることは政界周知の事実だった。
「えー……と、とにかくですね……この“磁気嵐”については、“自然現象”という公式見解は維持しつつ、日米共同で、あの……えー、“非常事態対策共同宣言”の文案を……ですね、進めておきたいと……」
声が揺れ、語尾がかすれる。
(やっぱり、民意が……!)
吹屋の脳裏には、朝の報道番組で並べられた支持率グラフが焼きついていた。――官邸の情報収集すら追いつかぬ、支持率急下落の連鎖的異変に、吹屋の不安は沸騰していた。
「……と、同時に、来週の“グランドマザー号”入港に合わせて、大統領閣下――あ、つまりタロット大統領の訪日に際し、えー、派手な歓迎イベントを……こう、国民の目を……うまくこう、そっちに……」
机の下でハンカチを握りしめる、額には汗。
ミッキー・タロット。
現米大統領にして、ポピュリズムの化身。
まったくもって、予測不能な言動で知られ、先日の大韓民国大統領を迎えての公式晩餐会でも、おどけてK-POPで踊り出すような男を、どのように“制御”しつつ“好感度回復”に利用できるのか――吹屋は迷走していた。
だが、その場にただ一人、まったく動じる様子のない男がいた。
陣幕源治。
大与党邪馬統神勅党代議士にして、閣議に無言の影響を及ぼす“官邸外の大実力者”。
閣議室の末席、腕を組んだまま黙して座すその眼光は、まるで獲物の喉元を品定めするような静けさを湛えていた。
(……いい機会だ。吹屋には、外面を保たせるだけ保たせ、矛盾のすべてを背負わせて、ぶっ潰せばいい)
陣幕の考えは冷酷かつ明晰だった。
グランドマザー号の入港と、大統領の到着――その裏で、我らが神勅の会は「赫の粛清」と「政財界再編」の段取りを同時に進める。
タロットの来日は、利用価値がある。吹屋の脆弱さも、利用価値がある。
(今は、踊らせておけばいい)
吹屋が顔を引きつらせながら、お笑い芸人並みの“歓迎演出案”を早口でまくしたてる傍らで、陣幕はふと目を伏せ、眉間に指を当てた。
「冥影……?」
冥影が、源治に思念を飛ばしてきた。
(法主様、内々に話がございます……。)
冥影。
彼が意図して思念波を送ることなど、滅多にない。しかも政中枢にある陣幕の“思考領域”へ、直接打ち込まれるほどの明瞭な波長。
それは、邪馬統を揺るがす、何かが確実に進行していることを意味していた。
陣幕は無言のまま、指先で会議資料をひとつずらす。
その動きに気づいたのは、官房副長官ただ一人だった。
「……陣幕先生? どちらかへ?」
「……ちと腹をこわしたようで、一旦失礼する」
それだけを言い残し、源治は会議室を出た。歩みは静かであったが、誰にも止められぬ重さを持っていた。
――十五分後、赤坂の地下駐車場。
黒塗りのレクサスLS600が静かに動き出す。
源治は後部座席で目を閉じた。
冥影からの“後波”が、再び届く。
(……仙台坂、聖堂裏手の礼拝門にて)
場所が明示されたことで、源治の表情がわずかに引き締まった。
――そこは、神勅教会でも最奥、関係者の中でも“内殿中の内殿”とされる場所。
冥影がわざわざそこを指定するということは……。
源治は、ジャケットの内ポケットにある“古びた喫煙具”を、そっと指先でなぞった。
それは、かつて金狼候 ・牙王が遥の父を粛清した夜、戦利品として回収したものであり、源治も愛用を続ける「それ」であった。
車は仙台坂へと向かう。
帝都の高層群から離れ、緑に囲まれた邸宅地帯――
その地下深く、禍と理の均衡が揺らぎ始めていた。




