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第四十七章 餓鬼の島・愛妾


   1

 地下深くに鎮まる「幽湯の間」は、石灰と黒曜の岩壁に囲まれた静謐(せいひつ)の空間であった。温泉の湯気が音もなくたゆたい、かすかに硫黄の香が漂っている。


 霊泉の蒸気がほの白く灯火を包み、天井の岩盤に揺れる水影が、さながら結界の外に満ちる禍々しきものを拒絶しているかのようだった。


 冥影は無言のまま、袴をほどき、上衣を脱いだ。


 梨桜は、その動作を助けるために背後に膝を落とす。


 手元に迷いはない。


 だが、指先のわずかな震えだけが、これから夜伽を迎えるという乙女の心の昂ぶりと、彼女の体温の上昇を密やかに告げていた。


 帯を解く。


 その白く長い布が床に滑り落ちると同時に、冥影の肌が蒸気のなかに現れた。


 枯木のように痩せてはいたが、その肉体には、かつてこれまでに倒した敵と同数の、無数の刺青と、戦塵を経てきた異能者の刻印が宿っていた。


 梨桜の瞳は、その背の文様をなぞるように見つめた。


 「……傷が、深うございます」


 小さく呟いた言葉に、冥影は応じぬまま、湯の縁に足をかけた。


 霊泉の熱さは尋常ではない。だが冥影の肉体は、音もなくその湯を受け入れていった。静かに、淡く、苦悶の色さえ見せず。


 「来い」


 背を向けたまま告げたその声は、命令でもなければ、甘言でもなかった。むしろ、ある種の儀式としての情を求める声音であった。


 梨桜は、衣を脱いだ。


 重ねた黒と銀の巫女衣を静かに畳むと、身体に纏うのは一枚の薄衣のみ。


 霊的な清浄を守るため、下衣も身につけぬそれは、白磁のような肌の上に風のように沿っていた。


 彼女の歩みは、まるで祝詞を唱えるように緩やかだった。


 湯に身を沈めると、梨桜は冥影の背にそっと手を添えた。手に香を馴染ませるようにして、肩甲骨の間を撫でる。


 その掌から滲む霊香の香と、微細な震えを孕んだ体温――それが、冥影の皮膚に染み込んでゆく。


「なぜ、お前は怖れぬ」


 冥影が問いかける。蒸気の奥で、その声は水琴窟(すいきんくつ)のように微かに響いた。


「以前に、冥影様は……壊れてもよいと、仰せになりました。ならば、壊れるまでお仕えするまでです。壊れることに怖れはございません」


「愚かで、忠義深い小鳥め」


 背に置かれた冥影の手が、梨桜の手の甲を包んだ。


 そのまま、手を導く。


 下腹へ。脇腹へ。水面下に隠された、情けと熱の交錯する部位へと。


「これは情ではない。……術式だ」


「はい、心得ております」


 梨桜の返答は、澄んでいた。


 彼女の体に流れる"触媒因子"は、冥影の異能を増幅し、呪を鎮めるための導線でもある。


 それは彼女にとって誇りであり、宿命であり、冥影に捧げる唯一の祈りだった。


 湯が揺れた。


 冥影の掌が、梨桜の背にまわる。


 まるで生贄に印を刻むように、骨の節をなぞり、肌の律を覚える。


 それは愛撫ではなかった。


 だが、愛に似たものだった。


 互いの体温が溶け合い、術と信が重なりあう一刻。


 冥影は目を閉じ、湯に身を沈めながら、ただ一言、呟いた。


「……この世にあるすべての虚妄を焼き尽くすまで、我らは影として生きねばならぬ」


 梨桜は、そっと頷いた。


 そのままふたりは湯に身を預け、やがて霊香の香気に包まれながら、静かに夜の帳へと沈んでいった。



   2

 


 床の間には、銀糸を織り込んだ障子からほのかに射す月の光が、薄明かりとなって漂っていた。


 寝具の上、梨桜りおうは静かに寝息を立てていた。


 長く伸びた黒髪が、薄い掛布の上に水のように流れ、肌にはほのかに湯の香が残っている。


 まどろみのなかにあっても、その表情はどこか張り詰め、まるで夢のなかでも冥影の声を待っているかのようだった。


 冥影は、その額に一度だけ指を添え、すぐに手を離した。


 彼の視線は天井にある漆黒の梁へと向けられていた。目は伏せていない。眠る気など初めからなかった。


 その眉間には、なおも皺が刻まれたままだった。


 赫の一族の"真なる胎動"――そして、牙王が支配する裏稼業ネットワークを介したハーヴェスターへの支援体制。


 どちらも、もはや無視できぬ「火種」である。


 冥影は、それらの相関を俯瞰するように思索をめぐらせていた。


 牙王め。


 あの獣人が操る仮想通貨〈ウルフ・チップ・コイン〉と、そこに連なる匿名性の高い資金洗浄ネットワーク。


 本来ならば神勅の会の"外の手"として、赫狩りに有用な牙であるはずだった。


 だが、その牙が今、裏からハーヴェスター――つまり、ゲーレン・ダストなる新興異能勢力に流れている。


 冥影は、血の流れよりも、金の流れの方が速い時代になったことを、誰よりも早く悟っていた。


 しかし――。


 「……金狼侯よ。貴様の小銭勘定に付き合ってやるほど、もはや、我らに余裕はないのだぞ……」


 独り言のようなその声は、酷く冷たかった。


 かつて邪馬統が構築した術の布陣は、赫の異能に対して絶対的な優位を持っていた。


 だが今、それが脆くも崩れつつある。


 赫の新芽たちは、束になり始めている。赫たる力は、今や焔ではなく"律動"と"共鳴"として広がりを見せていた。


 梨桜の小さな寝息が、時折、微かに揺れる。そのたびに、掛布の端がわずかに動く。


 冥影はその様子を斜めに見下ろしながら、声には出さぬが、心の奥底で静かに誓った。


 ――赫の焔が、邪馬統を焼き尽くす前に、我が手で「理の形」に封ぜねばならぬ。


 梨桜の身体の温もりに抱かれながらも、冥影の思索は、ますます冷ややかに研ぎ澄まされていった。


 それは、人の情を偲ばぬ者の眼差しであり、ただ"使命"に殉ずる者の眼差しであった。


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