第四十六章 餓鬼の島・冥影の暗き悩み
書斎には、霊香と名づけられた黒龍香の香煙が、天井高くまで薄く漂っていた。
禍眼導師・冥影は、黙して文机の前に坐していた。
灯火も落とした部屋の中、唯一の光源は壁際の翡翠の燭台に灯された一点の紅焔。
淡く揺れるその灯が、冥影の顔貌を赤く染めては、陰りに呑まれてゆく。
机上には、古びた皮表紙の記録簿と、近代製のタブレット端末が並んでいる。
かつては、血脈を封じられた赫の一族の動向――そして、八傑衆の連戦連敗の報告が、何よりもその精神を重たく蝕んでいく。
「……赫の鼓動、沈むどころか、脈打ち始めおった……」
低く、吐くような声で呟いた。
冥華、 牙王をはじめとする八傑衆――並み居る異能の烈士を以てしても、赫の"芽吹き"を止められなかった現実。
そのことが、冥影の胸中に冷たい裂け目を生じさせていた、敗北はただの戦術的損失にとどまらぬ、先日、目の当りにした、赫が赫たる証、すなわち陸珀肆拾量体血色素の顕現、それは、神勅の会の根幹たる"血の優位性"を根底から揺るがしかねぬ――。
「……もはや、この帝都において赫を封じる理は、壊れかけているというのか」
冥影は眉間を押さえ、ゆっくりと目を閉じた。
思索の矛先は、いつしか〈ゲーレンタワー砲撃事件〉へと向かっていた。
表向きは「ガス爆発事故」と処理されたその事件。だが、冥影の耳には、真相がすでに深く入り込んでいる。
ロシアの極秘傭兵会社――ズルロイ・メドヴェーチ。
かつてバルフ、ヴァン湖、そして秋芳洞といった幾多の暗殺工作を成し遂げてきた“凍土の悪魔たち”が、あろうことか帝都のど真ん中で、精密誘導型の砲撃を敢行した。
狙いは、ハーヴェスターの上層部。
「……あれをやったのが、全農響だと?」
冥影は、ほとんど呆れるように口を歪めた。
全農響――かつての全国農業響力組合、いまや農林水産省と内閣府食料安全保障庁の手足として、国家の食料政策を牛耳る巨大な既得権益機関。
その彼らが、従来の“神勅党一本推し”という方針を揺るがせ、密かにハーヴェスターの台頭に危機感を募らせていたことは、冥影も把握していた。
ハーヴェスターが提唱する「農薬不要型遺伝子耐性作物」「土壌無依存型多層収穫システム」――それらは一見、夢のような新農業ビジョンに見えたが、冥影からすれば“支配構造の破壊”にほかならなかった。
全農響が保持する利権――種子、肥料、水利、価格保証、補助金――それらの根幹すべてが、あの連中の出現によって崩れ落ちる可能性をはらんでいたのだ。
「……反発は、予想していた」
だが――と冥影は奥歯をかみしめる。
「ズルロイを使って、堂々と牙を剥くとは……全農響も、愚かにして無謀……」
既に〈ハーヴェスター〉と〈全農響〉の確執は、経済戦争の域を越え、情報戦、そして実戦へと突入している。にもかかわらず、神勅の会はそのあいだに挟まれ、火種を押しつけられる立場にある。
「……ゲーレン・ダストと全農響・ズルロイ・メドヴェーチの争いをこのまま放置すれば、赫の一族との戦など霞んで見える」
更に、冥影が頭を抱えているのは、目前に迫った〈参議院選挙〉であった。
これまで与党神勅党を一貫して支えてきた全農響が、いまや一部執行部において「別の政治選択肢」を模索しているという情報がある。
「……冗談ではない……!」
冥影の指が、机上の黒檀の筆置きを強く叩いた。
政治が揺らげば、資金も揺らぐ。
資金が揺らげば、邪馬統の維持も、邪馬統が有する、地下・在家戦力の動員も、赫への殲滅作戦も――すべてが瓦解する。
しかも、――赫の一族が“赫が赫たる証”を持って、真に覚醒しつつあるというのに。
冥影は立ち上がり、背後の硝子窓の向こうに広がる夜の帝都を見つめた。
「……嵐が来る」
つぶやいたその言葉は、黒龍香の煙の中で溶けていった。
赫の焔。
全農響の叛旗。
ハーヴェスターの暗躍。
そして、選挙という“建前”の裏に潜む、より巨大な意思のぶつかり合い。
冥影は悟っていた。
この帝都で近く起こるのは、ただの政治抗争ではない。世界秩序の再定義に等しい、“新たなる戦争”なのだと。
ふと、冥影は額を押さえた。
知らず、額から汗がにじんでいた。寒冷の書斎で、額に汗――異様なことだった。
その時、鈴の音が響いた。
冥影は静かに身を起こし、銀の呼鈴を再び一度だけ鳴らす。
「梨桜はおるか」
しばしの沈黙の後、襖が開く。
そこに立っていたのは、黒と銀の巫女衣に身を包んだ、ひとりの美しく可憐な少女。
――梨桜。
冥影の影に付き従う、十六の年若き愛妾。
その貌は、夜の湖面のごとき静謐を宿し、白磁の肌と絹の黒髪が、幽玄の気を帯びている。
「冥影様、梨桜ここに参りました」
梨桜は深く頭を垂れ、冥影の傍らへと歩み寄った。
「風呂に入る、お主も準備せい」
「すでに……ご用意を」
返答は短く、音も少なく、だが一糸乱れぬ礼儀がそこにあった。
冥影は無言のまま立ち上がり、梨桜を先に立たせて、部屋を後にした。
書斎から繋がる奥廊下。幾重にも張られた結界を梨桜が静かに祓うと、鉄扉の先、地の底に沈むようにして、神勅の会、地下の内殿に設えられた「幽湯の間」へと導かれてゆく。
そこには、人の手の届かぬ温泉があった。
灼熱と冷水とが複雑に交錯するその霊泉は、呪を洗い、血を清める力を持つとされ、冥影が疲弊の兆しを見せたときだけ、愛妾を伴い、ひそかに開帳される。




