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第四十五章 餓鬼の島・土の帝王コブラ



 帝都文京区、千駄木三丁目。通称「霞が関の別腹」と揶揄される高台の一角に、全農響本部――すなわち"全農響会館"はそびえている。


 鉄筋打ち抜きの地味な外観の中、最上階には、絨毯敷きの広大な会長室が設えられていた。


 その重厚なソファに、ひとりの男が胡坐をかく。


 瘤羅萬犀(こぶら まんさい)


 全農響の現総裁にして、"農の鬼将、土の帝王"と異名される、戦後農業利権の生き証人であった。


 顔には深く刻まれた皺、眉間にはまるで土鍬つちぐわの如き深い折れ目。


 口元は常に煙草の痕が染みついている。


 着物姿の上からは襟巻を掛け、足元は裸足に雪駄。足元には、焼き網に載せたスルメイカがじゅうじゅうと音を立てて香ばしく炙られていた。


 隣の徳利には、「獺祭・磨き二割三分」。


 香り高く、そして異様なほど冷えている。


 会長室の壁面には、山形の棚田を描いた大絵図と、北海道十勝の拓地風景のモノクロ写真が並んでいる。


 ガラスの向こうには、帝都の高層ビル群が霞んで見えていたが、瘤羅の目にはそれらは「土を知らぬ人間の墓標」と映っていた。


 机上には、戦後の農業改革を主導した故・天野実業団長の署名入り書簡が額装されている。


 彼はかつて、食糧難の中で鍬一本で国を立て直した老農たちを見て育った。瘤羅もまたその一人だった。


 昭和二十年代、高知から上京し、農響の資材部に勤めながら夜間大学で農政学を学んだ叩き上げである。


「たかでたまるか!都会もんは、まっこと"百姓"を見下しちゅう」


 ぽつりと洩らした言葉には、戦後七十余年の鬱積が含まれていた。


 ハーヴェスターの連中――遺伝子とデータで農業を制すなどと抜かす輩を、彼は"肥料(コエ)も嗅いだことのないエセ書生"と斬り捨てていた。


 電話の受話器から、ロシア語混じりの通話が終わり、通訳担当者が一言だけ、瘤羅に報告した。


「……確認されました。ゲーレンタワーの砲撃を完了、ヘリコは、離脱済みです」


 しばし、沈黙――。


 次の瞬間、瘤羅は鼻を鳴らし、イカをちぎって口に放り込んだ。


「……ふん、さすが凍土の悪魔。根切り《ねきり》の手際は見事じゃとしかよういわんわ(いえないな)


 噛みしめながら、ちびりと獺祭を口に含む。辛口の旨味がイカの燻香に溶け合い、男の口腔に"戦果の味"として染み渡っていく。


 瘤羅の代理として、ゲーレンタワーを襲ったのは、ズルロイ・メドヴェーチ――通称「凍土の悪魔たち」


 ロシア語で「邪悪なる熊」と名乗るその集団は、旧ソ連の極寒の地・カリーニングラード州にて、特殊作戦軍の最下層から這い上がった者たちが母体となって誕生した。


 今ではPMC(民間軍事会社)の顔を持ちながら、その実態は正規軍ですら恐れる非合法の掃討部隊。


 カザフスタン西部の山岳地帯に拠点を置き、石油会社の警備を名目に活動しているが、実際は各国の諜報機関からも"関与を避けるべき名簿"として共有されている危険な存在だ。


 それは、戦場の静寂を喰らい、記録にも記憶にも残さぬまま姿を消す"影の軍隊"。


 彼らの戦術は"心理的残虐性"に特徴がある。


 あえて生存者を残し、わざと異常な死体を演出する――


 それは「黙示録効果」と呼ばれる演出型精神工作。


 見る者の脳裏に"生き延びることへの罪悪感"を植え付ける。


 彼らはドローンによるレーザー測距で標的の防御網を探り、ロケット弾を正確無比に撃ち込み、制圧後はわずか10分で撤収する。


 その速度と精度は、もはや"演習"の域を越え、芸術にすら似ていた。


 ズルロイは、タワー36階のガラス張り本部長室を狙い、ヘリからロケット弾を撃ち込み、標的とともにリージェントアルファ関連のデータを炎上させた。


 狙撃はわずか一発、撤収は180秒以内。あらかじめビル周辺に流したフェイク信号により、襲撃は"ガス爆発による事故"として処理された。


 そのたびに、彼らには匿名の振込が送られる。


 差出人は表に出ぬまま、だが必ず「国内農業安定化基金」という名義で、ある口座から巨額の報酬が動く。


 JAS全農響――その影に潜む"国策の皮をかぶった利権の獣"が、ズルロイ・メドヴェーチという"もうひとつの殺し屋"を飼っているのだ。


 彼らは、正義の名を持たぬ。


 だが、それこそが、正義を騙る者の最も恐れる存在である。


 ゲーレンタワーに砲撃を加えること――それは確かに過激な行為だった。だが瘤羅にとっては"畑を荒らす猪を射る"のと同義だった。


 野を守る者が、畑を荒らす猪をほふるのに躊躇してどうする。


 背に腹は替えられぬ、やらねば、自分たちの水利も、種子も、五十年かけて作り上げた"食料を生産できる国土"もすべて、外資に支配するされることになってしまう。


「これでええがよ。ハーヴェスターちゅう"畑違いの種子タネ屋"が、どこまで日本おれらぁの土に口出ししてもええもんか、こじゃんと分からせちゃるきに」


 舌の先で酒を転がしながら、瘤羅は笑った。決して声を上げぬ、喉の奥だけで笑う老農の笑みだ。


「陣幕源治のお坊っちゃんも、なんちゃあ分かっちょらん。赫の一族とやらより、わしらの"種"の方がよほど深いぞ」


 そう吐き捨てるように言うと、瘤羅はもう一度、獺祭の盃を傾けた。酒の香が鼻腔に広がると同時に、顔に刻まれた深い皺がわずかにほころんだ。


 受話器をゆっくりと戻しながら、ぼそりと呟く。


「……百姓、なめちょったら、承知せんぞ」


 机の上には、神勅党選挙対策委員・陣幕源治から届いた封筒がある。選挙協力の打診だ。


 だが、彼の手はまだ開封していない。


 心のなかで、ひとつの計算が動いている。


 ――政を動かすには、畑を守る力だけでは足りぬ。まだ足らぬ土百姓の怒りを、誰に託すかだ。


 萬斎は、怒りをロシアのヒグマに託した。


 萬犀の眼差しは、再び窓の外の霞んだ都市に注がれた。その先には、赫と神勅、そして次代の政を巡る血と死の気配が満ちている。


「ま、ええわ。参院の茶番は茶番でえい、それでぼっちりじゃ……」


 そう呟くと、瘤羅は再びイカをちぎり、冷えた酒を一息にあおった。

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