第四章 赫の芽吹き・風魔・雷桜
1
事件から数日後の神宮寺学院。
喧騒は消え去ったが、静かになった校内に漂うのは薄氷のような緊張感だった。
校門前では、仁斗呂爆が、相変わらず竹刀を片手に、生徒たちを睨みつけている。
眼光は鋭く、以前にも増して神経質で疑い深くなったようだった。田所の死が与えた衝撃が、仁斗呂をさらに苛烈に変えたのだろう。
登校する生徒たちは、仁斗呂の前を通り過ぎる時、できる限り視線を合わせないようにしている。
ほんの些細な服装の乱れや振る舞いが、その竹刀の矛先になることを皆知っていたからだ。
遥もまた、視線を落としたまま足早に校門をくぐった。だがその背中にも、仁斗呂が冷徹な視線が向けていることには、気づいていなかった――。
その光景を二階の階段踊り場から静かに見下ろす人影があった。
日向斎である。
斎は無表情に、ただ静かな瞳で仁斗呂の動きを観察していた。仁斗呂の高圧的な指導、逃げるように校門をくぐる生徒たちの背中、その中に紛れ込んだ朱鷺宗遥の姿も、彼の視界には明確に捉えられていた。
口元に浮かぶ微かな冷笑が、斎の内心を映し出す。
愚かで、弱い者たちを押さえつけて悦に入る、取るに足らぬ小者――仁斗呂への軽蔑がその表情に現れていた。
しかし斎の眼差しが遥に向けられた瞬間、微笑は消え、瞳の奥には静かな焔が灯った。
赫の血潮に目覚めた己と、まだそれに気づいていない遥。運命の糸が二人を引き合わせる時が、刻一刻と近づいていた。
斎は冷たく細めた眼で、似斗呂に視線を戻す。
仁斗呂は新しい獲物を得たようであった。
一人の女子生徒の少し長めのスカートの裾に手を伸ばして因縁をつけているようだった。
斎はその唇の動きを読み取り始める。
「文句があるなら体育教官室で聞こうか。放課後、体操服に着替え、スカートを持参して、『ひとり』で来い。わかったな」
唇の動きを読み終えると、斎の口元には軽蔑をこめた薄い笑みが浮かんだ。
「やれやれ、さっそく次の不埒者が現れたか……。『いつの世にも、悪は絶えない……』、まったくだわ」
その時だった。不意に背後から強く肩を小突かれた。斎は鋭い視線で振り返る。
そこには、柄の悪い三年生の男子が二人、下卑た笑いを浮かべて立っていた。
「おい、一年坊主、随分楽しそうじゃねぇか。何かエロいモンでも見てたのか?」
挑発的な笑みを浮かべながら、じりじりと距離を詰めてくる。
斎はゆっくりと身体を翻し、彼らと真正面から向き合った。その瞳に宿る赫の焔が、一瞬、赤々と燃え上がるように見えたのは気のせいだろうか――。
斎は何も言わずに階段を上り始めた。その背中に宿る赫の宿命は、否応なく彼らを運命の戦いへと導いていくのであった。
「いえ。ただいい天気だな、とぼーっと空を眺めていただけっすよ」
斎は表情を消し、穏やかにそう言った。
そしてゆっくりと眼を細め、二人の先輩に向き直る。
「先輩方、何か?」
「ああ、それよ。今日財布を忘れちまってよ、昼飯が食えねえんだわ。ちょっと金貸してくんねぇか?」
三年生の一人が、露骨に威圧的な笑みを浮かべた。
「あ、いいですよ」
斎は淡々と胸ポケットから財布を取り出し、無造作に一万円札を差し出した。
二人は驚いたように顔を見合わせ、すぐに卑屈な笑みを浮かべた。
「すまんな。一年坊主なのに世話んなっちゃって悪いね。また忘れちまうこともあるからよ、その時もよろしくな」
「ええ、喜んでお力添えさせていただきます」
斎は二人の背中が遠ざかるのを見届けてから、小さく吐息をついた。
「邪馬統、八傑衆の風魔と雷桜か……俺の正体も、そろそろ気づかれているかもな。くわばらくわばら」
彼の瞳はまた冷たく輝き、赫き宿命の炎がそこに揺らめいていた。
2
神田神保町の裏路地に、『知精堂書房』と看板が掛かった薄汚れた古書店がある。その二階奥にある狭い喫茶室で、男は静かに待っていた。
彼の名は、孟谷 勲。33歳、赫の一族の末裔の一人だ。池袋にオフィスを構える、ファイナルシャープ調査事務所の主任調査員、私立探偵である。
スーツの上からでも、尋常ならぬ筋肉の隆起が見てとれる偉丈夫である。
孟谷はかつて警視庁捜査一課に籍を置き、その鋭敏な洞察力と妥協を許さぬ捜査姿勢から数々の難事件を解決し、『火の国の獅子』と悪党からは畏れられていたが、邪馬統神勅の会が引き起こしたある悲惨な大事件の捜査中に、心と身体に酷い深傷を負い、それを契機に公職を辞し、今は浮気調査を中心とした巷の探偵稼業に身をやつしている。
「遅くなりまして」
ドアが静かに開き、背が高く痩身の男が入ってきた。ヘリンボーンのスーツを纏ったその男。東響大学文学部民俗考古学センター長、そして、お花茶屋法律事務所オーナー、お花茶屋博士博士、48歳。
「お気になさらず」孟谷は短く応じ、顎をしゃくって椅子を勧めた。
お花茶屋博士は静かに腰掛け、深い溜息をついた。
「実は、あなたに折り入って頼みがある」
「聴きましょう」孟谷は冷静な表情のまま問い返した。
「朱鷺宗遥という少女がいる」
博士の声は低く重く、密やかに響いた。
「彼女は特殊な血筋に生まれた。狗奴の赫の一族の末裔だ」
「赫の一族……」孟谷の眼がわずかに鋭さを増す。
遥の実の両親は、赫の血を巡る宿命の対立の果てに、悲劇的な最期を迎えた。
母は赫の一族――狗奴の国の血を濃く受け継ぐ、指導者階級の祖先に連なる娘であった。
その赫き血統は強力で、神勅の民が放つ間諜から常に監視され、やがては、排除すべき対象とされていた。
一方、父は邪馬統の血筋に連なる神勅の民の当時の八傑衆の一人であり、赫の一族殲滅の使命を帯びていた。
父が母に近づいたのは、元々、彼女の父を暗殺せよという使命を全うするためであった。しかし運命は皮肉にも、二人を許されぬ恋に落としめる。
赫と邪馬統、相容れぬ血潮の狭間に生まれたのが遥である。
二人は許されぬ禁色の恋の行く末を悲観し、互いの宿命に決着をつけるかの如く心中を図った。
しかし、運命の再びの悪戯に翻弄され、遥のみを遺してこの世を去った。
その後、引き取られた里親にも去られ、独り遺された遥を密かに支え続けてきたのが、お花茶屋博士であった。
博士は当時の弁護士としての身分を利用し、遥の表向きの出自を秘匿し、赫の一族の血潮を守り続けてきたのである。
遥はその真実を知らぬまま、平穏な日常を送っている。
だが、その裏側で赫き運命の胎動が遥を揺さぶろうとしていた。
「そうだ。彼女の出生の秘密は闇に葬られ、本人もまだ何も知らぬままだ。だが、最近になって赫の血が覚醒しつつあるようだ。やがては邪馬統神勅の会が彼女を狙うは必定であろう」
「……邪馬統神勅の会ですか。とてつもなく厄介な相手ですな」
「赫の血に覚醒した遥は、おそらく邪馬統にとって、赫の一族の中でも、最も手強い敵になるのは間違いない。だが、彼女は、赫の一族にとっても、邪馬統にとっても掛け替えのない価値をもつ存在なのだ。つまらぬ戦で失うわけにはいかぬのだ。だからこそ、今、あなたの力が必要だ。遥の庇護を引き受けてはくれまいか」
探偵はわずかに瞳を細めてお花茶屋博士を見つめた。
「私に依頼する理由は何でしょう?他にも、腕のたつ探偵は多い」
「だが信じられるのは貴方だけだ。孟谷勲、あなたには赫の一族の血が流れ、実際に邪馬統と死闘を繰り広げた経験をもち、奴らを熟知しているはずだ」
探偵は低く唸った。博士は続けた。
「遥を守れるのは、あなたしかいない。頼む」
沈黙が流れた。孟谷はやがて口を開いた。
「報酬は?」
博士はわずかに微笑んだ。
「貴方が望むだけの金額を用意しよう」
孟谷も笑みを返す。
「ふっ、冗談ですよ。だが――」
探偵の目が煌った。
「もし邪馬統と本気で事を構えることになったら、今後、夥しい流血を見ることになる。両手、両足、それ以上に余る犠牲者がでるのは必至、覚悟はおありですか?」
「無論だ」博士の目にも鋭い光が宿った。「すべて承知の上だ」
孟谷は短く頷いた。
「引き受けます。朱鷺宗遥は、私が命に替えても護りぬきます」
かつて、『火の国の獅子』と呼ばれ、悪党共から恐れられた正義の猛獣が眠りから醒めた瞬間であった。
二人の男の視線が静かに交錯する。
それは宿命の歯車が再び廻り始めた瞬間でもあった。
3
孟谷は博士と別れると、小川町のパーキングに停めていた車へ足早に向かった。
漆黒のBMW M8 クーペ・コンペティション改が、その鋭利な牙をひそめるかのように静かに鎮座している。
V型8気筒、排気量4400cc――。
もとより獰猛な内燃機関にさらなる鞭を入れ、二基のタービンを大型セラミックタービンへと換装した。徹底的にチューンされたエンジンは究極まで過給圧を高められ、その最高出力は驚異の1200馬力に達する。
BMWが誇るローンチ・コントロールシステムを起動すれば、停車状態から時速100kmまでの到達に要する時間は僅か2秒フラット。
この圧倒的加速性能があれば、不意の危機にも、突破し回避することは十分可能となる。
車体は特殊素材「鍛造化ハイパー・セラミクロン」で各所が徹底的に強化されている。
ハイパー・セラミクロンとは、二酸化ジルコニウムを0.05ミクロンまで微細化させ生成した粉末状セラミックを、有機結合剤で再合成し、摂氏2200度の超高温下、アルゴンガス噴射方式にて全方位から200メガパスカルという超高圧を10時間加え続け焼結させ、理論密度100%に鍛造化された究極の超高密度セラミックである。
この素材を、富士・光子力研究所に持ち込み、超希少金属ジャパニウムから鋳造された超合金Z製の専用金型へと流し込み、ダイヤモンドカッターで精密に成型して完成させたロールバーが、ドア、ルーフ、フェンダー、コックピット、エンジンルーム、トランクルームの各所に巧妙に仕込まれ、搭乗者を完璧に守り抜く。
その硬度はモース硬度で10、金剛石に匹敵する世界最強クラスの強度を誇る。
理論上、このボディは600メートルの高さからコンクリートの地面に叩きつけられても、ドライバーがノーダメージで生還可能なほどの耐久性を備える。
さらに、漆黒の車体表面には厚さ1センチのハイパー・セラミクロンがマット・コーティングとして施されており、海底に沈められたとしても、理論上は深海2万メートルの水圧にまで耐える。
しかし、これはあくまで理論値であり、現実的にはウインドウガラスが先に耐え切れないため、飽くまでも数値上の話だ。
だが、その装甲性能はライフル弾用の防弾規格NIJレベルIIIを軽々とクリアし、破壊力は4000ジュールに迫る超高エネルギー弾、例えば.500 S&Wマグナム弾の近接射撃にも余裕で耐えることができる。
まさに、現代に降臨した超高速装甲車と呼ぶに相応しい化物である。
かつて、西部のカウボーイたちは悍馬を駆り、砂漠と森に囲まれた荒れ野を地平の彼方へと疾駆した。
そして今、孟谷はアスファルトとコンクリートに覆われた現代の荒れ野を命を削りながら疾走する。
漆黒のM8は、もはや単なる車輌ではない。
それは孟谷勲という男の意志そのものを具現化した鋼鉄の愛馬であり、究極の相棒なのである。
愛馬が大排気量の8気筒エンジンに相応しい、低く野太い唸りを上げた。孟谷はM8を一ツ橋から首都高速道路にのせ、池袋方面へと車を走らせた。
死地に臨む前に、どうしても会っておかねばならないひとがいた……。
『西早稲田往来総合病院』
地下駐車場にM8を静かに停めると、孟谷は足早に病棟へと向かった。
ゆくる――、それは琉球地方でゆっくりと休む、の意味である。
病室では、孟谷の婚約者が五年間も眼を閉じてゆっくりと休み続けている。
過去に、孟谷が邪馬統との死闘を繰り広げた際に巻き添えとなり、未来を奪われたまま眠り続ける美女――直方由希子。
静かに部屋へ入り、孟谷はそっと、由希子の寝乱れた長い髪を愛おしげに整えた。
「由希子、君が目覚める時には、必ず俺は君のそばにいると、そう約束したよね。だが……すまない。どうも、約束を守ることが難しくなったようだ。君が目覚めるその時には、俺はもう君の手が届かぬところへ旅立っているかもしれない。許してくれ……」
孟谷は静かに由希子の細い手を包み込んだ。
その時、あたかも言葉が通じたかのように、由希子の手が孟谷の手を微かに握り返してきた。
彼女の閉じられた瞼から、一筋の涙が頬を伝い落ちている――。
毎日午前6時に更新(新章追加)されます。よろしくお願いします。