第三十四章 餓鬼の島・飢餓と貧困の陰に蠢く者
N.Y.大学院生、エスメラルダ・デスコバルは、飢餓撲滅国際シンポジウムの会場に足を踏み入れた瞬間、溢れてくる、その熱気に圧倒された。
N.Y.大学の広大な講堂は満員で、立錐の余地もないほど詰めかけた世界各国からの来賓や専門家、農業、食糧問題研究者たちのざわめきが、低い轟音のようにホール全体を満たしていた。
世界各地の言語が交じり合い、同時通訳用インカムを装着した科学者があちらこちらで忙しく動いている。
エスメラルダも緊張した面持ちで胸に付けられた参加者バッジを確かめながら、席を探して周囲を見渡した。
壇上では、有名な農業研究者たちが次々と革新的な技術や理論を披露していた。
世界の飢餓問題を解決すべく遺伝子組み換え技術を用いた作物開発や火山・乾燥地帯向けの新品種開発など、どの講演も希望に満ち、理想的に聞こえた。
サン・ディオス共和国の農業事情を深く憂い、祖国を救うために日々農業科学を専攻してきたエスメラルダにとって、ここはまさに希望に満ちた約束の場所に感じられた。
当時、予備実験中が行われていた、ミア農業相の研究中のソフィア・グリーンも話題の中心であった。
休憩時間になり、講堂の外のロビーには軽食とコーヒーが用意され、参加者たちは活発に意見交換を始めていた。
エスメラルダは胸の高鳴りを抑えつつコーヒーを手に取り、小さな丸テーブルで一息ついていた。そこでふと目が合ったのが、ひとりの青年だった。
「失礼、ここに座ってもいいかな?」
彼は爽やかな微笑を浮かべて軽く会釈した。
金色の髪に碧眼、知的で洗練された雰囲気をまとった、瞳の澄んだ青年の言葉に、エスメラルダは一瞬戸惑ったが、すぐに笑顔で応えた。
「もちろん、どうぞ」
「ありがとう。僕はジェイコブ、ジェイコブ・カーター。グローバル・シード・イノベーション(GSI)の研究員です」
胸元に付けた研究所のロゴ入りのネームタグが見えた。エスメラルダの目が輝きを増す。
「GSI! 私、知ってます。飢餓に苦しむ世界の各国に種子を無償供与して飢餓を根絶するという理念は、素晴らしいと思います」
ジェイコブは微笑んだ。だがその笑みはわずかに陰を帯び、複雑な想いが瞳の奥で揺らめいていた。
「ありがとう。でも理想だけでは前には進めない。現実とのギャップに苦しめられる毎日でね」
エスメラルダはその言葉に少し驚き、無意識に前のめりになった。
「え?どういうことですか?」
ジェイコブは静かに息を吐き、逡巡するように周囲を見回してから、そっと口を開いた。
「エスメラルダ……さん、でしたね。今夜、時間があれば夕食でもどうですか? もっとゆっくり話したい。あなたが研究していることもぜひ聞かせてほしいし」
エスメラルダは、かっと頬が熱くなるのを感じながら、静かに頷いた。
その晩、大学の近くにある落ち着いたレストランで再び顔を合わせた二人は、すぐに意気投合した。
彼女は自分がサン・ディオス共和国出身で、祖国の食糧問題を解決するため、努力していることを語った。
ジェイコブもまた、自身が幼い頃から食糧不足や飢餓の問題に深い関心を抱き、その情熱から農学者を志したことを話してくれた。
「君は本当に純粋で理想に満ちている。だからこそ心配になる」
食事が終わりに近づいたころ、ジェイコブは急に表情を引き締め、低い声で言った。
「心配……?」
「GSIの表向きの顔と実際には、少し違いがあるんだ。理想と現実の狭間で僕自身、時々自分が何をしているのか分からなくなることがある」
ジェイコブの瞳に翳りが宿った。その言葉には深い苦悩と葛藤が滲み出ていた。エスメラルダはその真剣さに動揺しつつも、好奇心を抑えることができなかった。
「どういうことですか?」
ジェイコブはしばらく沈黙した後、小さくため息を吐いて言った。
「僕たちが貧困国に対して無償提供している種子には、少々問題がある。公式には救済用と謳っているが、その中には意図的に編集された特定ゲノムが組み込まれているんだ」
エスメラルダは驚きに瞳を見開いた。
「特定のゲノム……?」
ジェイコブは苦悩の表情をさらに深めた。
「その特定ゲノムが組み込まれた種子を栽培すると、土壌の微生物や栄養構造が改変されてしまう。一度植え付けた土地は、次からはGSIが提供する非常に高額な遺伝子組み換え種子由来でしか作物が育たなくなる。表向きは慈善活動だが、その実態は――GSIによる食糧供給の世界支配に他ならない」
「……」
エスメラルダは言葉を失った。ジェイコブの瞳には深い後悔と悲痛な告白が宿っていた。
「つまり、GSIは……食糧供給を支配するために貧困国の土地を、改変させているということ?」
ジェイコブは沈黙したまま頷いた。
その重苦しい沈黙が、二人の間に冷たい壁のように立ちはだかった。
「でも、あなたはなぜ私にこのことを……?」
エスメラルダが問うと、ジェイコブは深い息を吐き出した。
「君の瞳に映る理想があまりに眩しくて、ね。君には僕と同じ間違いを犯してほしくないから」
彼の瞳には涙が滲んでいた。エスメラルダは胸が締め付けられ、静かに彼の手を握った。
「ジェイコブ、私たちに何かできることはないの?」
ジェイコブはかすかな笑みを浮かべ、小さく首を振った。
「今はまだ……。でも……君はこの秘密には、これ以上、関わらない方がいい」
その夜の別れ際、ジェイコブは切実な声で彼女に告げた。
「エスメラルダ、君と出会えてうれしいよ。だが、このことを誰にも話さないでくれ。君が危険な目に遭うのは耐えられない。之は、僕が一人で何とかして解決するから」
その言葉を残し、ジェイコブは闇の中に消えていった。エスメラルダの心には彼の悲痛な叫びが深く刻まれた。
この出会いが彼女の運命を狂わせることになるとは、まだエスメラルダ自身も気づいていなかった。




