第三十二章 餓鬼の島・飛耳長目
1
帰路のハイヤーの車内は静かであった。
助手席のロムルスは、眼をつむり、額に指をあて、作戦を考えているようにみえる。
遥は、車窓の外を眺めながら、陣幕源治と、朱鷺宗将吾の間に何があったのか、想いを巡らせていた。
源治が手にしていた、将吾のパイプ。
状況から想うに、将吾、遥の父娘にとって、由々しき事態が起こった、それ以外は考えられず、遥の貌は曇っていた。
「お姉様、大丈夫ですか?」
心配そうに綾乃が遥の貌をみた。
綾乃に気遣われていることを知り、遥は正気を取り戻す。
笑みを浮かべて、綾乃を見て、そっと手を執る。
「ええ、大丈夫よ、綾乃。気遣ってくれてありがとう」
綾乃は、安心したのか、ほっと息をついた。
遥は、綾乃に気遣われて、自らの脆さに今更ながら気が付いたのであった。
2
台場に戻った遥は、服を脱ぐと、バスルームで、温いシャワーを浴びながら、瞑想に入った。
先ほどまで激しく揺らいでいた心を落ち着ける。
水音以外は聞こえない静寂の中で、ゆっくりと悟りのウタヒを呟くと、彼女を中心に薄い光の結界が広がった。
その結界の中心に静かに佇む遥は、まるで石像のように身じろぎ一つしなかった。
時間と空間が溶け合い、彼女の存在は徐々に無へと溶け込んでいった。
突如、遥の耳を劈くような雷鳴が全方位から響き渡り、鋭い閃光が遥の身体を貫いた。
しかし遥の表情に乱れはなく、彼女は静かな呼吸を続け、ウタヒを口にし続けた。
外界の激しい乱れを受け流し、遥の精神は強固な意志で包まれていた。
やがて雷鳴が遠ざかると、代わって獰猛な獣の咆哮が遥を取り囲んだ。
闇の中で無数の餓獣の眼が不気味に煌めき、遥を追い詰めようとしていた。
しかし、遥は冷静に片腕を天高く掲げ、掌を大きく開いた。
「タカマノハラニ ワレハタツ、イニシヘヨリノ アカキチカラヨ、アシキタマホ ナギハラヘ、ワレハキル、ヨコシマナル ジャキノムレ……。高天ヶ原に我は起つ、いにしえよりの赫の力よ、悪しき魂を薙ぎ払え、我は斬る邪な、邪鬼の群れ……」
そして、厳かな詠唱と共に遥の掌には黄金に輝く薙刀が顕現化した。
その瞬間、遥の周囲に漂っていた赫き焔が一層強く燃え上がり、彼女の身体を包んだ。
遥の瞳の中に、強烈な覚悟の眼差しが映し出され、彼女の心は、もはや何物にも揺らぐことはなかった。
次の刹那、遥は電光石火の如き素早さで薙刀を振り抜いた。
その一閃は世界を切り裂くほど鋭利で、餓獣たちの咆哮は跡形もなく消え去った辺りを包む静寂は深遠で、遥の呼吸だけが微かに響いていた。
遥を取り囲んでいた結界がゆっくりと解け、失われていた空間が再び蘇った。
思念の中の戦いの余韻が静かに空気を震わせる中、遥は胸に手を置き、自らの内に燃えた赫き焔をそっと鎮めた。
彼女の心からはすべての迷いが消え去り、ただ静かな自信と強い決意だけが残されていた。
「……もう、迷わない」
遥の呟きは小さく、しかし確かに響いた。赫の一族としての使命を胸に刻み、彼女はローブを羽織る。
陣幕源治と父の関係はいつか明かされる日が来るだろう、おそらく、父はもはや、生きてはいまい。
けれども、私は泣かない。
粛々として、父の仇を討つ。
陣幕源治よ、せいぜいその日まで、卑しき魂命を大切にするがよい。
遥は、決意を込めて、唇を噛む……。




