第二章 赫の芽吹き・骸
1
夜毎、朱鷺宗遥は悪夢に囚われる。
夢の中で遥は、一羽の兎となっていた。
どこまでも続く果てなき草原を、群れと共に駆けている。
脇目もふらず、ただ懸命に群れから逸れないように、追って駆ける。
ふと、遥の耳元に囁きが届く。
「群れから外れてはならぬ。群れと共にあれば、脅かすものはない――」
声の主は見えない。遥はただ、その言葉を盲目的に信じて走るのだが、
囁きが消えた瞬間、決まって草原の片隅に野苺の甘い香りが立ちのぼる。
その香りに誘われ、遥は意識の底で抵抗しながらも、いつしか群れから逸れていた。
美しく熟した苺の赤い実が、叢の陰に揺れている。
「そっちに逸れてはいけない!」
遥の本能は叫ぶ。
だが身体は抗えず、群れを離れて一歩踏み出す。
次の刹那――
遥の背に鋭く焼けるような激痛が走った。
牙だ。
捕食者の鋭く冷たい牙が遥の背を貫き、その血肉を引き裂いていく。
絶叫が喉を裂き、夢はそこで途絶えた。
「はあ……!」
遥は汗に濡れた額を押さえ、跳ねるように目を覚ます。
肩で息をしながら、慌てて枕元の時計に目を走らせる。
起床時刻はとうに過ぎている。
「またか……」
苦々しく笑いながら、遥は乱暴にシーツを払いのけてベッドを降りた。
早鐘のように響き続ける胸の鼓動がまだ鎮まらないまま、彼女はまた新しい一日を迎える。
そして今日も、赫の血が遥を呼び続けていた――。
遥は汗ばんだ身体を起こし、乱れた髪を無造作にかきあげた。
遥には親の記憶がない。物心ついた時には養護施設にいて、その後里親に引き取られた。
だがその里親もまたまもなく、遥を残し姿を消した。
銀行員だった義父は、営業先から預かった五億円と共に突然失踪した。残された義母は心労が重なり、程なく病死した。
世間は遥を「泥棒銀行員の娘」と後ろ指を指し、幼き日々は陰鬱な孤独に包まれていた。
唯一の支えとなったのは、顔も知らぬ後見人、お花茶屋博士だった。法学と文学、二つの学位を持ち、古代民俗学の権威であり、遥の生活費や学費を支援してくれる謎の人物。
しかし、遥はまだ博士と面識がない。
養護施設から遥の出生記録は消され、彼女自身もまた、自分が何者であるかを知らぬまま今日まで生きてきた。平凡を装い、自分を隠して生きる日々の中で、夢の声だけがいつも彼女に囁いていた。
「汝の本当の力を、見せるでない――」
その警告は遥の奥底に眠る『赫』の血を封じ込める鎖であったが、今、その鎖が徐々に緩み始めていることを遥はまだ知らない。
朱鷺宗遥は寝起き直後のけだるさを振り払うように、手早く身支度を整えた。
朝食は手軽さと効率を優先し、濃縮タイプのエナジードリンクに生卵と牛乳を加え、一気に流し込む。
覚醒のための大量のカフェインに脅かされる胃粘膜の負担を抑えるべく、牛乳と卵が保護膜となることを期待した。
これだけで500キロカロリーは確保できる。彼女にとって今朝の朝食は、単なる生理的必要性の充足に過ぎない。
メイクは最低限で華美な装飾を避ける。
ブラントカットの前髪とシンプルなボブカットの後髪。
黒縁の垢抜けしない伊達眼鏡をかけ、神宮寺学院指定の鞄を手にする。
決して人目を引くような装飾品を身につけることはない。
標準から逸れることなく、安全な群衆の群れに溶け込むために。
2
神宮寺学院高等部――その名の通り神宮前に位置する都内屈指の名門私学である。
遥は地下鉄副都心線の北参道駅で降車すると、自然に他の生徒たちの流れに紛れ込み、静かな群れの一部となって校門を目指す。
ふと背後から肩を軽く叩かれ、遥はゆっくりと振り向いた。そこには、同級生の太刀華小夏が微笑んでいた。
小夏は見る者を惹きつける容姿の持ち主である。柔らかに波打つ艶やかな長髪は陽光を受けて輝き、大きく澄んだ瞳は瑞々しい光を湛えている。
高く通った鼻筋と形のよい唇が微笑を作ると、その美貌は一層際立つ。清楚さと華やかさを併せ持つ、まさしく学院の華と呼ばれるに相応しい美少女であった。
小夏の表情は朝から喜びに満ちていた。
「小夏、何かいいことあったの?」遥は穏やかに尋ねた。
「見て見て!」小夏はスマホのLINE画面を誇らしげに掲げた。
スマホには制服姿の小夏のポートレート画像が映っている。
「私ね、今度、『青山さくら組』のメンバーに選ばれたの!」
青山さくら組――それは大手の芸能事務所『バミューダ』が運営する、都内の高校の女子生徒の中でも特に容姿端麗かつ品行方正な生徒達で構成された、いわゆるセレブリティ・サークルだった。
メディアの取材を受けたり、雑誌や若者向けの情報番組に出演することも多い。
ショウビズの世界に誘われ、後に国民的スターと讃えられるようになった者も数多く輩出している。
「すごいじゃない、小夏」遥は素直に称賛した。
「えー、遥だってさ、素のレベルは高いのに確信犯的にわざと《《アレ》》っぽくしてるよね。勿体ないなあ」
「私はいいの。みーんな普通でちょうどいい」遥は穏やかに笑った。
「まあ、遥がそれでいいって言うなら、私は、敢えて何も言わないけど」
学院の校門が視界に入った瞬間、二人の表情が固まった。
数台のパトカーが停まり、制服姿の警察官数名が教師達と共に登校する生徒たちを厳しく見回している。
「遥、あれ何だろう……事件かな?」小夏が不安げに呟いた。
「ちょっと、嫌な感じだね」遥の顔にも緊張が走った。
拡声器を持った教頭が、生徒たちに鋭く指示を飛ばしている。
「神宮寺学院の生徒は皆、速やかに教室へ入り、そこで待機していて下さあい!臨時ビデオ朝礼をしまあす」
生徒指導担当主任教師・仁斗呂 爆は、校門前で竹刀を肩に構え、鋭い眼光を登校する生徒たちに浴びせ続けていた。
その厳しすぎるほどのギラついた目つきは、生徒指導の範囲を逸脱した異様なものに感じられた。
遥と小夏の後ろを歩きながら、エアポッドでラジオニュースを聴いていた男子生徒の二人組が、突然、素っ頓狂な大声をあげた。
「げえー!学校の当直室に男の焼死体だってよ!」
「マジか?誰だ、誰だよ」
私語を咎めるように仁斗呂が怒鳴る。
「貴様ら、さっき教頭先生が言ったことを聞いてないのか!騒がず歩け、馬鹿者」
「げっ、ニトロ爆弾!」
小声で吐き捨てる男子生徒。
その一瞬、登校していた生徒たちの空気が凍りついた。誰もが静止し、仁斗呂の表情を恐る恐る伺った。
仁斗呂の顔はみるみる紅潮し、額に青筋が浮かび上がる。
「貴様、今なんと言った……!」
男子生徒は慌てて口元を押さえ、怯えきった目を仁斗呂に向けたが、時すでに遅かった。
仁斗呂は竹刀を強く握り締めると、牙を剥いた獣の如き表情で、生徒の襟元を荒々しく掴んだ。
「ふざけるな、貴様ら、どうやら躾けがちょっと足らんようだな!」
そして、震えあがる男子生徒の首筋に力を込める。
遥はその凄惨な光景を見ながら、小夏と共に身をすくませるしかなかった――。
3
神宮寺学院・男子当直室。
規制線の内側では刑事たちが慌ただしく、当直室内を出入りしていた。
骸から発ち昇る悪臭が充満する室内で、警視庁捜査一課殺人犯捜査第三係警部補、北條修司は口元を歪めながら、被害者である42歳の英語科教師・田所貴志の死体を冷徹な目で眺めていた。
「田所教師の評判はどうだ?」
北條の問いに、倉沢美月が厳しい表情で手帳をめくる。北條は38歳、美月は、29歳の巡査部長。
「同僚教員によると、日頃から懇意の女子生徒をこの当直室に連れ込み、まるでラブホテル代わりのように使っていたと……。校内でも一部で噂になっていたそうです」
北條は険しい顔で視線を落とした。
死体の外見は、火災現場のそれとは明らかに異なっている。
外側の皮膚や衣服にほとんど焦げがないにもかかわらず、内臓が完全に焼き尽くされている。
「体内の結果はどうでしょう?」
検視官の国木田剛がため息交じりに答えた。
「驚くべきことだ。電子スコープで確認したところ、咽頭部から胃、小腸、大腸、直腸に至るまで、一本の火柱が一気に駆け抜けたかの如くに焼けている。まるでガソリンスタンドの給油ノズルを口にくわえさせ、ガソリンを流し込んで火を放ったかのような激烈さだ」
北條は眉をひそめた。
「抵抗の痕跡は?」
「それがまったく見当たらんのだ」
国木田が苦渋の表情を浮かべる。
「これほど激しい殺害方法なら、当然激しく抵抗するはずだが、着衣の乱れもなく争った形跡は一切ない。どう見ても他殺なのだが……」
美月は無意識に腕をさすりながら呟いた。
「どうやって焼殺したのでしょうか……?」
北條は静かに答えた。
「それを解くのが我々の仕事だが……な」
彼は再び死体に目を落とした。その異常な殺害方法には、刑事としての長年の経験や勘が全く通用しない。
北條と倉沢は、言いようのない不安と戦慄を感じながらも、謎に満ちた殺害方法に静かに挑み始めていた。
「もしかしたら、あらかじめ眠らされて、ほかの場所、それこそガソリンスタンドで殺害されて遺体を整えた後に、当直室に運ばれたのでは?」
美月のつぶやきに、北條は頭を振った。
「いや、それはあり得ない。田所の死体は、死後硬直が完全に完成している。すなわち、死亡から十二時間以上が経過している計算になる。現在は午前八時。昨日、田所は午後七時まで職員室で試験の採点をしていた姿が目撃されているのだ。事に及ぶのに許された時間は、一時間にも満たない。周辺の夕刻の道路は渋滞し、人通りも途切れてはいない。そんな都心で、人目につかず、被害者を運搬し、学院の当直室に持ち込むなど、常識的には到底不可能だ。つまり、田所が殺害された現場は、この学院の当直室以外には考えられないのだ」
田所の骸は検視官による現場検案を終え、簡素な遺体収納袋に収められると、灰色のワゴン車で監察医務院へと運ばれていった。
現場に残った刑事たちは険しい顔つきで動機を追い始めていた。田所は学院内でも知られた破廉恥な男であった。
女生徒に留まらず、手の届く範囲ならば、相手を選ばず好き放題だったという。
酒癖も極めて悪く、酔えば暴力沙汰を含め、トラブルが絶えなかったと聞く。
「動機という点から追えば容疑者は数え切れんぞ」
刑事のひとりが吐き捨てるように呟いた。
捜査は始まったばかりだというのに、容疑者の多さ故に、既に暗礁に乗り上げかけていた。