第百二章 餓鬼の島・赫の死が待つ舞台へ
水平線の向こう、霧の帳を裂いて、巨影が姿を現した。
クイーンマザー号。
その艦体はまるで都市のように巨大で、海面を割って聳える鋼の砦のようだった。
孟谷が静かに息を吐いた。
「……見えたな。ここからが"本番"だ」
斎は肩を回し、顔を上げる。
「命張るなら、派手にいこうぜ。俺たちのやり方でな」
遥は、唇を固く結んでいた。
この船のどこかに、義父の仇敵がいる。
そして、ミアとエスメラルダも――
「待ってて。絶対に、取り戻すから」
綾乃は小さく祈るように手を組み、そっと呟いた。
「波が、言ってる。ここは静かなようで……嵐の匂いがする」
ロムルスはサングラスを外し、鋼のような瞳で艦影を見つめた。
「この船の底には、いくつの嘘と屍が眠っているんだろうな……だが、俺もそろそろ――眠るべきかもしれない」
クルーザーが接舷。
甲板に灯るオレンジの光が、まるで骸骨の目のように不気味に瞬いていた。
「……ここが、連中の巣か」
斎が呟いた。
その声には、冷笑と殺気が交じる。
「こっちの命を一枚札に賭けるくらいの価値はあるかな」
「それでも行くしかないのよ」
遥の声は震えていなかった。
だがその奥には、恐怖すら呑み込んだ怒りが燃えていた。
綾乃は沈黙していた。
だが彼女だけが、"船の声"を聴いていた。
鉄と血と、悲鳴の波動。
――ここは、ハーヴェスターに捉われた女神が救いを待つ場所。
ハッチが開き、彼らは一人また一人と、巨船の甲板へと足を踏み入れた。
それは、誰も戻れぬ"舞台"への登壇だった。
鉄のタラップを渡り、五人の影が船内へと足を踏み入れた。
クイーンマザー号――超豪華貨客船の内部は、想像を遥かに超える“異空間”だった。
「……豪華っていうより、悪趣味だな」
斎が漏らす。
目の前に広がるのは、金と紅を基調とした回廊。大理石の床には西欧風の神話を描いたモザイク、左右には静止したままの豪奢な彫像たち。そして天井のシャンデリアは、船にあるとは思えぬほど巨大で、赤い光を滲ませていた。
「ここまでやれば、もう“舞台”なんでしょうね」
綾乃の声は低く沈む。波がない。音がない。それが彼女には恐怖だった。
「“船の中”って感じがまるでしない……密室、そして檻」
遥は無意識に背筋を伸ばしていた。手の中には小さな護符の欠片が握られている。
ロムルスは無言で足を止め、壁の装飾を見た。
精緻な彫金細工の中央――そこには、ミアがかつて描いた家紋と酷似した文様が彫り込まれていた。
「……やはりここに連れてこられたのか、ミア」
孟谷は一歩前に出た。
彼には見える――この空間そのものが、"誰かの目"の中にあるような感覚。
と、その時。
唐突に照明が落ち、真紅の絨毯が音もなく展開された。
「血と叫びと賭けの祝祭、The Last Flameへ、ようこそ! さあ、まずは誰が“命”を賭けてくれるのかな?」
艦内デッキへ続く通路に現れたのは、ラメ入りのジャズスーツを纏い、金の杖を片手にした陽気な男だった。
スキンヘッドに笑い皺、しかしその奥の目は静かに獲物を測るハンターのようだった。
「Yo, yo, gentlemen……オレはロイ・G・ハンプトン。夢と血と金の仲介人。キミらの噂、届いてるぜ」
孟谷は足を止めた。
ロイはその隙を逃さず、名簿アプリのようなものを表示して見せた。
「"元公安刑事"、職歴抹消、"日本帝都首都高速の乱"当事者。非公式戦績・無敗――そんな男にさ、うちの"闘士"が興味津々でね」
孟谷の瞳が細くなる。
「……向こうからか?」
「もちろん。"敵の血でしか眠れない奴"は、似た臭いに敏感なんだよ。さあ、どうだ。リングで名を刻むか? それとも過去の亡霊として、船を降りるか?」
孟谷はゆっくりと片手を胸元に当て、拳銃ではなく、ネクタイを締め直した。
「すまんが、亡霊になるつもりはなくってな」
孟谷は視線を逸らさずに答える。
「……そのリング、静かにしてやるよ。二度と誰も吠えられねぇようにな」
「舞台に立つ側が拒んでも、観客が金を払えば、ショーは始まる。ここはそういう場所でね、ミスタ、孟谷。“ワジキ”って名前、聞いたことあるか?」
「……リングの殺し屋か」
「ノンノン。“リングの獣”。ルール無視、観客絶叫、視界真っ赤。そんな彼と、君の闘いを、俺たちは“見たい”んだよ」
孟谷は無言で顎を引いた。
「報酬は倍付け。生き残れば、ただのポリス崩れの男から“生ける伝説”だ。どうかね?」
「よかろう、案内してくれ」




