第百章 餓鬼の島・金と黒の演出
クイーンマザー号、 牙王と鴉皇。
牙王はまだ飲み足らない様子であった。
冷蔵ボックスの中の金製バケツからよく冷えた瓶ビールを抜き出す。
「ったく、ザコの血で渇きがひでぇ……次はもう少し喉ごたえのある奴を頼むぜ」
栓を歯で抜こうとしたその時。
「……牙王様」
背後から、黒いスーツの男――ゲームマネージャーがすっと現れた。
片手にはタブレット、もう一方の手で静かにジェスチャーを示す。
「次戦を、即時開催。上層より"演出強化"の指示が出ています。」
「演出……ねぇ。やれやれ」
牙王は、開けかけたビールを冷静に置き直し、立ち上がった。
「──で、次の餌は誰だ?」
そのときだった。
白銀のスリットドレスに身を包んだ氷艶妃・晶華が、扇のような手を優雅に上げていた。
萬犀を地獄に送った後、ジェットヘリコを飛ばしてクイーンマザー号に戻ってきたのだった。
「……あなたよ、鴉皇。舞台が整ったわ」
呼応するように、晶華の隣に立っていた影が、無音で動いた。
黒翼将・鴉皇。
八傑衆随一の暗殺術士にして、影を喰らう者。
その顔に表情はない。
ただ、微かに眼差しを牙王に向け、深く帽子をかぶり直す。
「おいおい……お前さんが出てくるのか? まさか"仲間割れショー"ってやつか?」
牙王はニヤリと笑う。
だが空気は、凍りついていた。
晶華の瞳は氷のように冷えきり、鴉皇の気配はすでに"殺し"に入っていた。
「これは"決闘"ではないのよ。──"演目"なの」
晶華は言った。
その声は甘く、しかし一切の情がない。
牙王は肩を回す。
背筋を伸ばし、再びリングへ向かうその背に、氷艶妃と黒翼将が視線を投げかけた。
「……あぁ、なるほど。そういう流れか。上等だ。殺るか殺られるか、はっきりさせようじゃねぇか」
牙王の眼が、獣に戻った。
血に濡れた舞台に、新たな幕が、落とされた。
リングの上に、沈黙が降りた。
音楽は消え、照明は最小限に絞られた。
中央には金狼侯・牙王、既に戦闘態勢。
対するコーナーには――
黒翼将・鴉皇。
その全身は漆黒のロングコートに包まれ、顔半分を覆う仮面の下から、目元だけが静かに光を帯びていた。
「フン……どこ見てんのかすらわかんねぇ奴ってのは、正直やりにくい」
牙王が唸った次の瞬間、
――ズンッ。
空気が沈んだ。
鴉皇が、ただ一歩、踏み出しただけで。
「!」
牙王の脳裏に、鈍く冷たい感触が走る。
"殺意"――だが、それは牙王がこれまで感じてきたそれとは根本的に異なる。
それは、"音も光もない死"だった。
「影穿」
低く、耳鳴りのような声が響くと同時に、牙王の足元から影が突き上がった。
「チッ!」
咄嗟に横跳び。だが袖が裂け、左腕にかすった感触。
影が――実体を持っている。
「上等じゃねぇかよ……!」
牙王は身を翻し、拳を叩きつける。
だが鴉皇の姿はもうそこにない。
「ッ……後ろか!」
牙王が肘を返すが、すでに鴉皇は"影"に溶けていた。
「──幻よ」
その瞬間、観客席の上段から、氷のような声が響いた。
氷艶妃・晶華。
彼女の指先が、ゆるやかに宙をなぞる。
「《霧氷楼閣・夢幻層》――」
次の瞬間、リング全体が薄い霧に包まれた。
「チッ、こいつ……ッ!」
牙王の呼吸が浅くなる。足元の床が揺らぎ、視界が歪む。
鴉皇の姿が十、二十、無数に分裂し、リング中に出現した。
「──幻覚か……!」
拳を振るえば空を切る。
音を頼ろうとすれば、聞こえるのは観客の悲鳴と自分の鼓動だけ。
「くそっ……チマチマと……!」
牙王が拳を地に叩きつけると、リングの鉄板が割れ、幻の霧が一瞬だけ消し飛んだ。
その一瞬――鴉皇の"本体"が、牙王の左脇に立っていた。
「いたッ……!!」
金狼の眼が光る。
「もらったぜ!」
牙王の拳がうなりを上げた。
――だが。
「……遅い」
低く囁かれた声と同時に、鴉皇の左掌が牙王の首元に触れた。
「影噛!」
ズグンッ、と背中を走る感覚。牙王の視界が、一瞬黒く塗り潰される。
「ッぐぅ……!」
膝が崩れかける。
だが、牙王は吠えた。
「うるせえ……! てめえの"死"はこんなもんじゃねぇ……!!」
金狼の咆哮が、幻と霧と影を裂いた。
牙王の拳が、真正面から、鴉皇の顔面を――砕かんばかりに――叩き込んだ。
血が飛び、仮面が割れる。
晶華が立ち上がった。
「鴉皇ッ!」
観客が総立ちになる中、鴉皇は後方へ跳び下がり、口元から血を拭った。
その目には、ようやく"興味"の火が灯っていた。
牙王は、吐き捨てるように言った。
「……やっと"生き物"らしくなってきたな、貴様」




