気持ち悪くなんかないです
「ぬぁ~! ハナちゃん! かわいい!」
「え、本当? ありがとう」
ツムギは、金沢が着付けたハナの浴衣姿を見るなり、鼻息荒く駆け寄ってきた。
……ツムギお嬢様、もうなんかおっさんみたいだな……。
「これ、宇賀さんの浴衣です」
「え、良いの?」
「はい。是非お使いいただければと思います。よろしければ、近嵐さんのお宅で着付けをしますけど」
「やって欲しい! 絶対、すっごく綺麗だよ」
ハナは満面の笑みを金沢とツムギに振りまいた。
***
ツムギがハナを夏祭りに誘い、何でも浴衣の着付けをしてくれるというので、近嵐とウガルルムはアパートで待機していた。
が、近嵐はどうにもウガルルムがあちこち移動しては、ちらちらと送ってくる視線を感じて、落ち着かずにいた。そういえば、家で日中に完全に二人きりは珍しいか。
「……何か、あるのか?」
さすがに気になり、近嵐はウガルルムに質問した。
「……」
記号の顔からは、何かひどく悩んでいることだけが読み取れた。
息を深く吸うと、ウガルルムは立ち上がって、ソファに座っている近嵐に近づいた。
ハナちゃんの居る前じゃ、聞きづらい。
今しかない。
「近嵐さん、私のこと、どう思ってますか」
ウガルルムは、すっと近嵐を見つめた。
「どうしたんだよ、急に……」
「私のこと、好きですか? いえ……今、好きじゃなくても、好きになることはできますか?」
人間じゃない、ライオンでも、顔さえ見えなくても。
ウガルルムは、体中から勇気を集めて絞り出すように、言葉を紡いだ。
「私、近嵐さんが好きなんです」
ウガルルムの声が、他に誰も居ない、静かなアパートの午後に吸い込まれていった。
近嵐は、左手の冷たい感触に目を落とす。
水滴。
ポタポタと落ちてくる。
あれ、涙か。
これ、泣いてるの、俺じゃん。
「俺のことが、好き? ルルが? 何で?」
「何でっ……て……。そんなの、知りません。ずっと一緒にいて……ご飯作ってくれて、色んなこと教えてくれて、私のことも守ってくれて……」
「俺は、お前に好きになってもらえるような奴じゃない。お前が、俺のこと好きだ何て、そんなはずない」
だって。
俺はお前のことが好きなんだ。
だから、お前が俺のこと、好きだなんて。そんなこと。そんな怖いこと。
「近嵐さん?!」
呼吸がうまくいかなくなる。しばらく、なかったのに。過呼吸?
頭が痛い。
目の前が真っ暗になる。
「近嵐さん! 近嵐さん!」
遠くで、ルルが叫ぶ声が聞こえた。
***
口元に柔らかい感触がある。
「……!」
「近嵐さん! 良かった……」
天井が見える。これ、ルルの膝枕か。壁の時計は、15時少し前。本当に一瞬だけ、意識を失っていたのか。
ふと、近嵐はさっきの口元の感触を思い出す。
「あのさ……まさかと思うけど、その……」
「あ……、ごめんなさい……。意識を失った人間には、唇で息を吹き込むと習ったことが……あ! も、もしかして、初めてだったり……」
「……すまん、人生で2回目……」
ウガルルムは硬直した。
「2……2回目……」
「ルル、ルルってさ、人の記憶を消したりできるじゃん。俺の記憶を読んだりもできるの?」
「え? ええ。やろうと思えば……。」
「俺、お前に好きになってもらえるような人間じゃないんだよ。全部誤魔化しなんだ。見てくれよ。好きに何かならないで、俺のことなんかさ」
近嵐は、ウガルルムの手を取って、頭に触れさせた。
***
最初は交通事故の記憶。
小学5年生の近嵐が、学校の帰り道を歩いている。車道を走ってきたトラックに、右折したバイクが突っ込む。激しい音にびっくりして、大股を開けた態勢で転ぶ近嵐。そこに、上から弾き飛ばされたバイクが落ちてきて、両足の間にとがったパーツが、刃の様に迫り、そこで画像が消えた。
それから、ウガルルムも見たことのある、陰茎のない近嵐の股の映像。
中学生の制服姿の近嵐。教室と、2年3組と書いてある表札が見える。
中学生の近嵐に話しかける、長い黒髪の少女。大人しそうだが、目鼻立ちが整った美人だ。
喫茶店、動物園、水族館、映画館。多分、四季が移り変わるくらいの時間、二人であちこちに出かけている、楽しそうな様子。
画面が暗くなり、夕方の、どこかの二階建ての一軒家。品のいい植木と、重厚な木製のドアと窓枠。3台停められる駐車場には、黒塗りの艶々した車が2台停まっていた。
「今日は両親帰って来ないから。少し長めに居ても大丈夫だよ」
黒髪の少女がそう言った。その時、その顔にバリバリと不快なノイズが走り、顔が見えにくくなる。
画面の暗さが増していく。
ぬいぐるみや、本がたくさん置かれた、薄いピンク色の壁紙の部屋。
黒髪の少女は、シャワーを浴びてきたのか、毛先が少し濡れて、艶やかに光る。
「私たち、もう、結構付き合って長いよね。あの、さ。明人君」
制服姿でベッドに腰かけていた近嵐の隣に、黒髪の少女が座り、手を握る。
この子なら。
近嵐の声が響いた。
俺のこと、全部、受け入れてくれるかも知れない。
唇を重ねる二人。
黒髪の少女が手を引いて、近嵐の手で自分のブラウスのボタンを外すよう誘導して、はだけさせる。
黒髪の少女の右手が、近嵐の太ももから内側の方へ伝っていく。
「あのさ」
近嵐が、少女の右手を自分の手でさすった後、ズボンとトランクスに手を掛ける。
するすると、下半身を黒髪の少女の前に晒す。
「俺……実は……」
次の瞬間。
部屋の窓が割れるような悲鳴とともに、乱れた服装のまま、部屋の隅に後ずさる少女の姿が映される。その顔は、恐怖や嫌悪、不快感、そんなものに包まれていた。
「何なの?! 嫌! 気持ち悪い!」
画面は変わって、たくさんの黒い服を着た人間が、涙を流しながら並んでいる。
お正月に、集まっている時に火事だなんて。
息子さん夫婦も若かったんでしょ?
あれ、一人だけ、ずっと帰省もしてなかった、独身の弟さん。もう30くらい?
いえ、まだ大学出たくらいらしいけど。
ちょっと不気味よね。目も合わないし。
赤ちゃん、嘔吐下痢症で、その日だけ入院してたんですって?
一人だけ残されちゃって……。そんな、あんまりよね。形見はあのライオンのぬいぐるみだけ。
赤子を抱きかかえる、髪の長い近嵐。
近嵐が、ふと、赤子に目を落とした。
この子が居れば。
俺、結婚とか、女性の話とか、この先振られなくて済むんじゃね?
***
「な。俺は最低だろ? そういう奴なんだ」
近嵐が、ウガルルムの手を取って、自分から遠ざけた。
「あの時の辛さから逃げてるだけ。怖いんだよ。俺は気持ち悪い。気持ち悪い奴なんだ。ハナちゃんも、利用してるだけ。自分のため……全部自分のため」
ウガルルムは、近嵐をすっと見つめた。
「近嵐さんは、気持ち悪くなんかないです」
パリン、と、近嵐は何かが割れた音を聞いた気がした。
「近嵐さんを気持ち悪いなんて、一度も思ったことない。これからも絶対思わない。気持ち悪いって、何ですか。そんなこと、もう思う必要ありません」
記号の顔に、ひびが入る。
「ハナちゃんを利用してる? いつの話をしてるんです? あんなに一生懸命ケーキ運んで、演奏会に飛んで行って、看病して、かき氷食べて、毎日ご飯食べて、送り迎えして、あんなにいっぱいハナちゃんの写真撮って。それ、全部自分のため何ですか?」
ウガルルムの声が響いた後。
近嵐の前に塞がっていた、記号の顔が大きくひび割れていく。
「馬鹿な事言うの、止めてください」
***
目の前に、古い土壁。以前住んでいたボロアパート。
ハイハイをし始めたばかりのハナが、近嵐を見上げて笑う。
「ぱ、ぱ。」
俺は、この子を守らなきゃ。
しわしわのスーツ姿で、近嵐は泣きながらハナを抱き上げた。
***
俺なんて、ろくな人間じゃないのに。
近嵐は、自分の胸に沸き上がった言葉を口にした。
「ルル。俺、お前が好きだ」
「え?」
記号が粉々に砕け散った。
近嵐の目に、夕陽を照り返し、美しい金髪と、薄茶色の二重の目、すらっとした鼻筋と、柔らかそうな赤い唇の、ウガルルムの姿が輝いていた。
「近嵐さん、やっと笑ってくれた」
「って……え、私のこと……?」
「うん」
ウガルルムは、顔から湯気が出る勢いで真っ赤になりつつ、顔をしかめる。
「う。嬉しいです!……でも、ちょっと頭に来ました。他の子とデートして、き、キスして……何てもの見せるんですか……」
「悪い……ごめん。許してくれよ」
「じゃあ、上書きしてください」
「え?」
「も、もう一回好きって言ってください。あと、キスしてください。そしたら、許します」
「……」
近嵐が頭を掻いた。
「……そんなこと言ったら、かわいいだろ」
「わ、ちょっと……。」
近嵐は、誤魔化すように小さく「好きだ」と呟いた後、ウガルルムを抱きしめて、口づけをした。
アパートの呼び鈴が鳴り響いた。




