6:夏(2度目)(8)/ライオンなんか
近嵐は、女性の顔が認識できない。
正確には、中学2年生以上の女性の顔が、認識できない。
その代わり、顔が、色と記号に置き換わって見える。
記号は、いわゆる顔文字だ。
笑っていれば、口元が下凸の曲線に見える。大笑いしていれば、目が向かい合わせの不等号記号><に見える。これに加えて、怒っている時は赤色、怖がっている時は青色に見える。
かえって、普通の人よりも、女性の表情や感情は理解できているかもな、と自嘲する。
だから、ハナが成長する前に、できるだけ多くの写真を残しておこうと思っていた。いずれ、その顔を見ることができなくなってしまうことが分かっていたから、見えなくなるまでの間、できるだけ多く、その姿を写真に収めておこうと。
お父さん、と呼ばれて、振り向いた途端。
その顔が、点と線だけの、小学生の落書きのようになってしまい。
「うぁああああ!」
目を覚ました近嵐の頬には、涙が一筋伝っていた。
「な……何なんですか……」
ウガルルムが、ライオンの姿になって毛を逆立てている。
その姿を見て、近嵐はほっとした。
人間の姿のウガルルムの顔は認識できないが、ライオンの姿のウガルルムは、問題なく認識できる。
「……ルル……」
「な……何ですか?」
「甘い卵焼き、多めに作るから……その……その姿のまま、腹を貸してくれないか?」
「えっ……!は、腹を貸す?」
「……その、つまり、そのお腹に顔を埋めて良いでしょうか? その……時々、ハナちゃんがやってるだろ……」
「え、ええ?! わ、私のお腹に?!近嵐さんが?!」
「あ、ごめん、そうだよな。子供じゃないし、嫌だよな……。忘れてくれ……」
「あ、いや、嫌じゃないです……その……むむ……仕方ありませんね……ま、まぁ良いでしょう。ど、どうしてもというなら……。その、どうぞ」
ウガルルムは、内心ドキドキしながら、布団の上でゴロンと腹を出し、横になる。そのお腹に、近嵐は倒れこむように顔を埋めた。
短めの黄金色の毛で覆われたお腹は、低反発枕のように適度なしなやかさで近嵐を包み込んだ。良く晴れた日に、たっぷりと太陽の光を吸い込んだ布団の様な、柔らかく少し甘い匂いが、近嵐の鼻腔をくすぐった。
どたんと、寝室のドアが開く。早起きしてリビングに居たハナが入ってきた。
「あー!お父さんずるい! 私もそれしたい!」
「!!がっ、うっ!これは……!」
「あっ! えっと! その……どうぞ……」
「やったー!」
ハナもウガルルムのふかふかのお腹に抱きついた。
***
「志保ちゃん。そのね、友達の話なんだけど」
「ん?」
これ、友達の話じゃねーな。
「その、男の人から、起きがけに、「お腹に顔を埋めさせてくれ」って言われたらしいんだけど……、その、どういう意味かな? 私のこと、す、好きだったりするかな……」
「……あの男に言われたのね、宇賀ちゃん」
「ち、ちがっ………………ど、どうして分かるの!」
「下手くそかっ!もう! その関係、続いてたのね?! それで! させたの!?」
「……。」
こくり。
「くぁー!で、それで! それだけじゃないでしょ!」
「え、いや、そのまま寝そうになってて、その、ハナちゃんが来て、一緒にくっついてきて……。」
「娘ナイス!アブねぇ!絶対なし崩し的に変なことする気だったそれ! 態度はっきりさせないで、家事だけさせて! だめ!絶対だめよ!」
「変なことって……?」
「それは、朝から言わせないの! その男、絶対朝から興奮してたのよ! そんなの応じちゃだめだから!」
「あ、興奮……。それ、私にドキドキしてたってことだよね……」
「そんな良いもんじゃないわ! ほんと、駄目だからね! そういうことしてくるなら、まずちゃんと、告白して付き合う! 関係性をはっきりさせる! それが必要よ!」
「う、うん、そうか……。そうだね」
関係性か。
キャンプの時、金沢さんと話してて、自分の気持ちを伝えてみようと思ってたけど。
まだ少し、怖い。
気持ちを伝えて、それでもし……。
はぁ、ダメだなぁ。
ウガルルムは、水筒に入れた紅茶を一口すすった。
でも、そうだな。
もう、そんなに時間もないんだった。
ウガルルムは、少しだけ、日差しの鈍くなってきた夏の終わりの空を見つめた。
***
土曜日の朝、近嵐はコーヒーを飲もうと、キッチンでお湯を沸かしていた。
暑くても、朝はホットコーヒーが良い。
近嵐が背後に気配を感じて振り向くと、ウガルルムが立っていた。
「ん?ど、どうした?」
「……こないだ、私のお腹で寝ましたよね」
「え、あ、はい」
「あれ、何ですか?」
「え?」
「どういう意味ですか?あの、その……もしかして……」
そこまで言って、ウガルルムは固まり、黙った。
沈黙の中、やかんがヒューヒューと音を立て、お湯が沸いたのを知らせる。
近嵐がコンロの火を消した。
静かになったキッチンに、遠くで電車が走り抜けていく音が、かすかに響く。
駄目だ、聞けない。
私のこと好きですか、何て。
どうして、前はこんな恐ろしい言葉を、気軽に口にしていたんだろう。
近嵐さんは、きっと、こう言う。
ライオンなんか、好きにならないって。
私は、ライオンだから。
あ、ダメだ。私、人間じゃないじゃん。
近嵐さんには、好きになってもらえない。
好きになってもらえるはずがない。
静かなキッチンに、水滴の落ちる音が響いた。
涙の止まらなくなったウガルルムは、背を向けて、キッチンの外に向かう。
「……すみません、何でもないです。忘れてください」
どうしよう。
そうか、私は人間じゃないから。
当然だ、好きになってなんか、もらえるわけなかった。
最初から賭けになんかなってなかったんだ。
だから不可能なんだ。
「好きなんだ」
「は?」
「嫌だったら謝る。ほんとごめん。その……ライオンがお腹を触られる気持ちは分からないから……。で も……、その……。実は、その、ルルのお腹に……顔を埋めさせてもらったの、初めてじゃなくて……。前、その、寝てる時にこっそり……あんまりにも温かそうだったから、つい……」
「……好きなんですか? その、私のお腹……」
「直接言われると……何か恥ずかしいけど……」
「ち、ちゃんと言ってください!」
近嵐は、頭を掻きながらバツが悪そうにつぶやく。
「好きだよ、好きです」
ウガルルムの頬が一気に緩む。
「も、もう一回言ってください!」
「ええ?嫌だよ……」
「じゃあ、もうお腹使わせませんよ!」
「え、くそ……分かったよ……」
両手を胸の前で握りしめながら、ウガルルムは食い入るように近嵐の顔を見つめる。
「好きだ。ルルのお腹が」
「ひぃやああああ!」
ウガルルムの奇声がキッチンに響き渡る。
「そうですかそうですか~。なんだ、好きなんですか~」
にまにまとした笑顔で、首を傾げながら近嵐の顔を下からのぞき込むように、ウガルルムは見つめた。
***
「だから! それ駄目だって!」
「え~、私のお腹が好きだって……」
「身体でしょ! 何て奴! ゲス! ゲスよ! ほんと、駄目だからね!」
キャンパス内に、志保の怒鳴り声が響き渡る。
「もう、ちゃんと聞きな! 私のことが好きなのかどうかって」




