3 秋(1度目)(4)/この水はもういらない
「?」
土曜日の朝、ダイニングキッチンでコーヒー用のお湯を沸かし始めた近嵐の耳に、リビングの方でガタゴト、何かが揺れる音が響く。
近嵐がリビングに続く襖を開けた瞬間。
「うわぁっ!」
天井の一部が開いて金色のモップが姿を現す。
いや、逆さまのウガルルムの頭?
「な、何だ?! 何やってんだ!」
「あ、ここ、何か天井が開くみたいで。屋根裏収納ってやつですか? 気に入ったので、私の物、ここに置きますから」
……。そんなスペースがあったのか……。
まぁ、あれだな、キャットウォーク的な? いや、ライオンか…。
「壊さないでくれよ? 賃貸なんだから…」
もう、好きにしてくれ……。梯子でもないと、人間には入れないし、そんなとこ。
しかし、何を収納する気なのやら。
***
「ありがとう、ツムギちゃん。ツムギちゃんとペアになれて良かった」
「ありがとう、ツムギちゃん。ツムギちゃんとペアになれて良かった」
「ありがとう、ツムギちゃん。ツムギちゃんとペアになれて良かった」
「でへへへ……」
「……さま……」
「ありがとう、ツムギちゃん。ツムギちゃんとペアになれて良かった」
「でへへへえぇ……」
「ツムギお嬢様!!」
「うわっ!金沢!」
西園寺ツムギは、慌てて振り向き、使用人の金沢を睨みつける。
「開けるときはノックしなさいって……」
「しました、三回しました」
「ノックしてはんのう……」
「反応なかったらベルを鳴らすよう仰せつかっていましたので、三回大きめに鳴らしました」
「ぐぬぬぬ……」
ツムギは、顔を赤くしながら金沢から目を逸らす。
「で、乗り込んできて、一体何なの?」
「7時20分です、遅刻されるおつもりで?」
「なっ!あっ!」
ツムギは壁の大時計に目を向ける。
「ハナ様人形に、盗聴した音声を吹き込んで、没頭するの…。」
金沢はため息をつき、冷たい視線をツムギに向ける。
「だいぶ気持ち悪いですよ」
「う、うるさい!うるさい!」
ツムギは、金沢に怒鳴り散らしながら、ランドセルに教科書を乱雑に詰め込む。
「大体、ツムギ様はいつもいつも時間にルーズ過ぎるのです。そんなことだから……」
「そうね、いつもありがとう、金沢、お礼にこれあげるわ」
「なっ!がっ!」
ツムギは、お風呂上りの上半身裸の中年男性の写真を差し出す。
金沢は一気に、耳の先まで真っ赤になりながら、後ずさる。
「だ、だ、旦那様のそんな写真、ど、どこで撮影したんです?!」
「娘だから、いつでも撮影できるわよ。ま、いらないなら良いわ。じゃ、学校に行ってくるわね」
ツムギは、樫の木で出来た丸テーブルに、写真を裏返しにして置き去りにする。
ツムギがランドセルを背負い、ドアを閉め、どたばたと部屋を出て廊下を走っていく音が遠ざかっていった。
ゆっくりと10秒数える。
金沢は、心臓をバクバクさせながら、そろそろと樫の木のテーブルに近づく。
ごくり、と唾を飲み込みながら、ツムギが置いていった写真に手を伸ばし、ゆっくりと写真をひっくり返す。
そこには、先ほどちらりと目に入った、この館の主であるてツムギの父親が、お風呂上がりにバスローブを腰のあたりまではだけさせながら、塗れた髪で微笑む姿が、やけに高画質に焼き付けられていた。
ムゴフっ。興奮から妙な息が金沢の口から洩れる。
刹那、背後に視線を感じ、金沢は後悔とともに、メイド服のスカートを翻しながら振り返る。
ねっとりとした笑顔を浮かべるツムギが、ドアの隙間から覗いている。
「つ、ツムギお嬢様ぁ!!!」
「欲しいなら、そう言えば、いいのに……」
「さっ……さっさと学校に行ってください! 遅刻ですからね!」
足音を立てて、廊下を走ったふりをしたのか……く……子ども騙しに引っかかった……。
金沢は、ドアの外に顔を出し、今度はちゃんと廊下を駆けて行くツムギの背中を確認した。
***
ツムギは、廊下の突き当たりのドアを開け、コスモス、ダリア、キンモクセイが咲き乱れる屋敷の裏庭を抜け、突き当たりのコンクリート塀にたどり着くと、カードキーをかざす。
すると、塀の一部がスライドする。
塀の先は、地味な、古くも新しくもない、住宅街に溶け込んだ二階建ての一軒家だった。ツムギはその勝手口に再度カードキーをかざし、人気のない家の中に入ると、玄関まで敷かれた絨毯を土足のまま駆け抜け、三度玄関にカードキーをかざし、外へ飛び出した。
「あ、おはようツムギちゃん」
玄関の前には、ハナが立っていた。
「ハナ、おはよう!」
ツムギは、ぴょんと、玄関前の2段の階段を飛び降り、ハナの前に着地する。
「ツムギちゃん、おはよう。」
「あら、お父様と……今日はウガさんもご一緒で」
「バイトの朝番です。」
相変わらず、綺麗だなウガちゃん。
さすが、人間離れしてる。異次元の美しさってやつ?ほんと興味深いなぁ。
小学校への一本道をハナと歩きながらツムギはちらりと、二人を見送る近嵐とウガルルムに視線を送った。
まぁでも、なんか、近嵐さんは普通っぽいのに、不思議とカップルっぽいっていうか、釣り合わない感じはしないのよね。
「おはようございます」
メイド服から、スーツ姿に着替えた金沢が、近嵐に挨拶をする。
「ああ、ツムギちゃんのお母さん。いつもありがとうございます。仲良くしてもらって」
「それはこちらがお礼を言う方です。本当に」
そう言って、金沢は笑った。
ほんと、ハナちゃんのおかげで、転校しなくて済んで良かったわ。
手続きも、改めて一般家庭にカモフラージュするのも、大変なんだから。
金沢は、もう、ほとんど見えなくなった二つのランドセルに視線を送った。
「ではまた」
「どうもー」
簡素な挨拶だけを交わして、金沢は小学校の方向へ、近嵐とウガルルムは、地下鉄の方へ、それぞれ歩き出した。
「しっかし、でかいお屋敷だよな。誰が住んでるんだろうな」
「あ、やっぱりこれは人間の家の中ではでかい方なんですね。確かに、近嵐さんの家の小ささは、衝撃的でしたけど」
「……ほっとけ……ルルとの賭に勝ったら、これよりでかい家に引っ越してやる」
「でかい家ですか……でも、こんなに大きいと、人間3人のサイズには、ちょっと大きすぎですかね。その点、今の家、私は好きですけど」
「あっそ。ま、またその時になったら考えるか」
あれ?
「そうですね。じゃ、私はバイトに向かいます!また夕方にスーパーで」
笑顔で言うと、ウガルルムは近嵐と別れ、バス停の方へ歩いていった。
3人って言ったよな。あいつ。
賭が終わっても、ここに居るつもりなのか。いや、何も考えてないだけか。
あれ、でも……。
ルルは、どうなるんだ?
こんな、分が悪い賭。
もともと、圧倒的に俺が有利だ。
最終的に、求婚しなければ、それでおしまい。
そもそも、賭にすらなってない。
でも、それで、俺に負けたルルは、大丈夫なんだろうか。
その辺の事情、そういえば良く知らないんだよな。
ルルの背中は、もうずっと遠くで、声をかけても届かないだろう。いや、あいつなら聞き取るのかな。
別に電話して聞くほどのことじゃないか。
また、今度。そのうち、念のため、聞いてみよう。
ちゃぽん、とカバンの中で水鉄砲の水が揺れる音がした。
ライオンになって、襲われたら困る。だから護身用に持っていたマタタビ水。
冗談みたいだけど、これをかけると、ルルは嫌がって逃げてく。
まだこんなの入れてたんだっけ。
カバン濡れても困るしな。
近嵐は、栓を抜いて、水鉄砲の中の水を側溝に捨てた。




